

毎日が、濃い。
意図して予定を詰め込んでいるわけでも、ましてや生き急いでいるわけでもない。しかし、気づけば、濃い。
このたびの日本滞在は1カ月近くもあるから、実家はじっくり片付ければよいと思っていたが、甘かった。片付けても片付けても、次から次に、奥から出てくる両親のライフの証。父はまだしも、母はまだ生きている。何もかも捨てるわけにはいかず、仕分けをしては捨てる。仕分けをしては捨てるの繰り返し。
この数週間、いったいいくつの、ゴミ袋を捨てに行ったことだろう。
数日前、釣りの帰りに成果の「イカ」
を持参してくれた心やさしき従兄弟が、
「美穂姉ちゃん、これ、あと一週間で終わらんよ」
と、微妙な笑顔で言いながら、去って行った。
やめて。

実家の片付けをしながら、わたしはこれから、どう生きるかを、問い続ける。
何を求め、何を手放し、何を残すのか。
2020年、義父ロメイシュが他界したときも、義祖母の名残が残った家の片付けがたいへんだった。しかしインドは使用人がいるので、ある程度のことは、指示をすればすむ。もちろん、指示をするにも状況把握が必要ではあるのだが。
昨日は、母校である香椎高校を訪れ、校長、副校長、教頭、3人の先生方とお話をさせていただく機会を得た。詳細は、後日改めて、書き残す。
ともあれ、高校卒業時に「国語の教師になって、母校に戻ってきたい」と思っていた自分が、果てしなく遠回りをして40数年後、こうして母校に戻り、絆を結びなおそうとしていることを、不思議に思う。
神功皇后と仲哀天皇あってこその「香椎」「名島」という地名に深く関わる自分と、ここ数年の、帰郷のたびの「故郷再発見」が、日々、ぐいぐいと迫ってくる。

香椎高校での有意義な懇談のあと、香椎駅界隈で所用をすませ、またしてもロイヤルホストまで赴き、一人ランチをすることにしていた。すると妹から連絡があり、合流できるということで、一緒に食事をすることに。
美味ミックスフライ定食を食べながら、自分が今、気になっている「志賀海神社」の話をし、次回の一時帰国時にはレンタサイクルで志賀島を一周し、島に3箇所ある志賀海神社を訪れるつもりだと話した。車がなければ不便なので、今回は見送るつもりでいた。
そもそも、まだ実家の諸々は、終わっていない。ランチのあとは、ガーデンズ千早の無印良品に赴き、母の新居のためのさまざまを追加購入するつもりでいた。
ところが車で来ていた妹が「これから行こうよ」と提案してくれた。買い物は帰りにでもできる。志賀島は、さほど遠くもないからと出かけることにした。かつては、和白あたりを経由して左折せねばならなかったのだが、今は照葉(てりは)と名付けられた埋立地を突っ切って海の中道へ到達し、陸繋島である志賀島へ赴けるようになったのだ。

志賀島に入る直前に、すさまじい豪雨が降り出した。「龍神様が歓迎してくれているのだな」などと自分に都合よく解釈する。
しかし車を止め、境内に入るときにはパタリと雨が止んだ。石段を登り、ひとけのない静かな境内に入るや、涙があふれてくる。いったいどうしたことなのか。歳を重ねるとは、いちいち感傷的になることなのか。
海を望む「遥拝所」の鳥居越しに、神功皇后が三韓へ出兵される際に祈願した対岸を眺め、由来する「亀石」を眺めていたとき、ちょうど神職の方がお通りになったので、お声をおかけし、お話を聞きした。
すると、奇しくも昨日が、年に一度の、亀石を祝する日であり、昨日の早朝、神功皇后が祈願されたという海向こうの海岸に渡って祝事を行ったとのことだった。
香椎宮における10年に一度の勅祭に赴いたことといい、こうして偶然にも、志賀海神社の年に一度の大切な日に訪れたことといい、「呼ばれている」と思わずにはいられない。
志賀海神社の歴史は途轍もなく古い。志賀島は、博多湾の海上交通の要衝であるため、海の守護神として「海神の総本社」「龍の都」と称されている。御祭神は、海の底を司る「底津綿津見神」、海の中程を司る「中津綿津見神」、そして海面を司る「表津綿津見神」の綿津見(わたつみ)三神だ。
もう、このくだりを知っただけで、遥かなる気持ちになる。
「阿曇族」のこと、神功皇后にまつわる対馬の鹿の角のこと、浦島太郎伝説との関わりなど、調べるほどに興味深く、綴るに尽きぬので、今日のところはこの辺で。















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