

若者らに「手書き」を勧めて久しい。
人に勧めるからには自分もと、日々のジャーナルや日記に加え、今年に入ってからは、筆ペンでの写経もはじめていた。日記や写経は、特に心が乱れたときや、人には言えない憤怒や葛藤、問題を抱えているときに、瞑想のような役割も果たしてくれる。
ところがここ数カ月、日記を書かない日が増えている。写経も途絶しがちだ。
時間がないという問題ではない。どうしてだろう……考えて直後、閃いた。不安や不満、吐露せずにはいられないことが、ずいぶん減ったのだ。
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5年日記は、前年、前々年の「今日の自分」を振り返りつつ、今を綴るのであるが、これは自分を知る大切な記録となる。読み返すにつけ、「去年のわたしは何故、こんなことで思い悩んでいたのか」とか「自分も結構、問題あったんじゃない?」などと、自分の行いを顧みることができる。
だから、継続したいと思っているのだが、このごろは5年日記を開くことなく1日を終えることが多い。ベッドの上で軽く瞑想をして、心地よく横たわる。気づけば眠りの世界……。
こういう心の平穏が、なるたけ長い時間、続いてくれればいいなと願う。
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般若心経用のノートは、日本から取り寄せた。滑らかな紙。手のひらで、すっと表面を撫でるだけで、心が落ち着く。
集中力に欠けているときは、字間のバランスが崩れたり、書き損じたりする。それもまた、その時々の自分の心を映す鏡。集中して一気に書き上げることもあれば、中断して、再び筆をとることもある。
ひとつひとつの行いに、自分の心の状態が見える。
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今日のこのタイトル。英訳されると意味がまったくわからなくなるだろう。しかし、日本語ではすべて、Kamiと発音される。
紙とは神のようなものではなかったか、と、最近は思う。神話が綴られるも紙。歴史が記されるも紙。芸術が、音楽が、詩が、写真が、地理が、遍く世界が、紙の上で躍動する。
そして髪もまた、かつての日本では神聖視されていた。インドではスィク教徒の男性が、ターバンの下に生まれた時から伸ばし続けた髪が納められているなど。
歳を重ねたら昔のようにショートカットの方がいいと思っていたが……この先しばらく、髪を伸ばしたままでいた方がいいかもしれぬ、とも思う。
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ところでMacの「写真」ソフトを立ち上げ、「手書き」で検索すると、手書きの写真が出てくる。それらにざっと目を通すだけで、活字では得られない「自分」を見ることができる。手書きの重要性を再確認したCOVID-19パンデミックのころは、特に頻度が増えていた。
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ランダムに選んだ手書きの写真を、ここに載せてみる。「写真」のファイルに入っているということは、すでに過去、アップロードしたものである。
7歳のときの日記から、数日前の般若心経まで。ちなみにムンバイの地図はムンバイにも住んでいた2009年のもの。当時、日本からクライアントが来訪したときにコピーを取って渡していた。16年も前のものなので、参考にはならない。
百人一首の「立ちわかれ……」の句は、飼い猫がいなくなったときに書いて貼っておくと戻ってくるという「おまじない効果」がある。
我が家のNORAがかつて半野良だったころ、これを貼っていたら帰ってきたことが何度かあった。あと、友人の猫が行方不明になったときにも教えてあげたら帰ってきた。偶然かもしれないが、効果あり![]()
紙もまた、易々(やすやす)と時空を超える。
神!
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人生を創るNOTE/「手書き」を語り合う/ミューズ座談会シリーズ
(19分のあたりから、わたしの「手書き」プレゼンの時間になってます)


















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