インド百景 2021-2025

天竺の、風に吹かれて幾星霜。ライター坂田マルハン美穂が、南インドのバンガロール(ベンガルール)から発信

MUSE INDIA / HOMEPAGE

✈︎ 過去ブログ/2005〜2025

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    数週間前、チェンナイにお住まいの日本人女性Aさんからご連絡があった。近々、ご帰任なさるとのことで、雛人形を引き取ってほしいという。わたしのブログをご覧になったうえで、活用してもらえるのではないかと思ったとのこと。

    わたしの雛人形は、ガラスケース入りの小さなものだった。当時、若くて貧しかった両親が買ってくれた、精一杯の贈り物だったと思う。福岡実家を離れた際、人形だけを取り出して箱に詰め、東京、ニューヨーク、ワシントンD.C.、そしてインドへと連れてきた。一昨年より、着物関係の展示会を始めるようになってからは、日本を伝える工芸品の一つとして展示。多くの人たちの目に触れるようになった。

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    Aさん曰く、雛人形はご本人のものではなく、別の方から譲り受けたものだという。ご主人のインド駐在に伴い、チェンナイまで持ってきたものの、今後、日本で広げる機会もないとのことから、インドで引き取り手を探していらっしゃった様子。

    今後も日本の伝統工芸に関わる仕事は続ける予定で、来年は新居の地下ホールを和室にする計画を立てていた矢先。一部、天窓から光が入るが、しかし全体に薄暗く気温も安定しているので、展示したままでも品質管理に支障はないだろう。今後、多くの人に見てもらえると思ったので、お引き取りを決めたのだった。

    そして、日曜日の朝。当初は、Aさんの運転手だけが車に人形を積み込み、彼女は飛行機で来る予定だったが、インド・パキスタンの問題で空港が混雑する可能性もあったことから、車で6時間ほどかけて来訪された。車から、大きなダンボールが何箱も運び出される。話には聞いていたが、想像以上に大きな雛人形なのだと察する。

    日曜の夕刻はゲストが来訪する予定だったので、午後はゆっくり過ごそうと思っていたのだが、開封せずにはいられない。軍手をし、埃を払い、乾涸びた乾燥剤を捨てながら、約40年前に購入されたらしき人形や小物をを取り出す。

    ……なんという、美しさ!

    雛人形に関する詳細は、後日、改めて写真と共に紹介したい。

    まずは、ひな壇づくりだ。説明図に「簡単です」と書いてある割には、説明が大雑把。しばし説明図を見つめ、組み立て開始。日曜大工的な作業が得意な自分でよかったと思いつつ、黙々と仕上げる。冷房を入れていてなお、額に汗が滲む。

    赤い毛氈(もうせん)を、両面テープで固定しながら敷く。……でかい。でかいぞ!

    この地下ホールは結構、広い。畳で言えば何十畳かはある。しかし、箱やらなんやらで、盛大にとっ散らかる。一般的な日本の家庭では、とても広げられないだろう。大きいお屋敷の畳の間に飾られていたのであろうと夢想する。

    雛人形の顔にかけられた薄紙をそっと剥がす。やっと新鮮な空気を吸うことができて、みなうれしそうだ。家具類には、プラスチックの保護シートがかけられたまま。それらを剥がせば、新品同様の木製の家具が現れる。ようやく出番だとばかりに、どれも輝いている。

    一部、破損や損失も見られたが、概ね、揃っている。人形を飾りながら、思い出す。子どものころ、近所のMちゃんの家の、七段飾りの雛人形に憧れて、うらやましく思ったものだ。それが歳月を重ね、人生の2周目を迎えるまさに今、こうして我が家にやってきてくれるとは。

    これもまた、ご縁だと思う。ありがたいことだ。遠方、運んできてくださったAさんに感謝する。

    夕刻、日本旅を計画しているYashoとHariが来訪。小物の飾り付けが未完成ながらも、見てもらった。二人とも、そのスケールの大きさと精緻な手仕事のすばらしさに、感嘆していた。

    南インドには、雛祭りに似た女の子の人形祭り「Navratri Golu」がある。参考までに記録をシェアする。

    これから外出なので、取り急ぎの記録まで。

    🎎まるで日本のひな祭りを思わせる人形の祭り「Navratri Golu」。

    🎎日本の雛祭りにそっくりな、南インドのお祭り、Navratri Golu

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    バンガロールで二拠点生活を始めて、今月でちょうど3年になる。当初は1年以内に新居へ9割方、移る予定だったが、まだまだご近所さんの工事は現在進行形。4猫らは旧居で安住していることから、今だに新居はウィークエンドハウス状態だ。

    「あの服はどっちの家?」「あの書類、ああ、忘れてきた!」「読みかけの本が……ない!」「しまった、こっちの家は、米を切らしていたよ!」などということが頻発し、それなりに面倒だった。今でも結構、面倒だが……慣れた。

    さて、一昨日の土曜日は、ちょうど旧居と新居の中間地点に位置するテックパーク (Manayata Tech Park) にオープンしたばかりのAmiel Gourmetに立ち寄った。実は新居の近くにある一大スポーツセンターの中にも店舗があり、これまでもしばしば訪れてきた。フレンチビストロ風のカジュアルなカフェレストランで、イタリアンやアメリカンなメニューも揃う。

    オーナーであるLayaからオープニングパーティの招待を受けていたが、わたしは日本に一時帰国中だったので、今回、初めて訪れた。テックパークで働く人々が利用するカジュアルな雰囲気ながら、料理は良質だ。シーザーサラダをシェアし、わたしはチキンバーガーを、夫はラビオリを注文。チキンが日本料理の「鶏の唐揚げ」みたいな味わいで、とてもおいしかった。

    かなりのヴォリュームだったが、食べ尽くしてしまった。新居に到着するや、軽く片付けてシャワーを浴び、昼寝をする。至福のひととき……。
     
    Layaは、フランス領マダガスカル出身。料理が好きだった彼女は、バンガロールでシェフのAmiel Guerinと出会い、二人の協調によってAmiel Gourmetが誕生したという。

    これまでにも、幾度となく記しているが、バンガロールには本当に、たくさんの店舗が次々にオープンしていて、未開拓の店が多数だ。気分を変えるためにも、たまにはこうして、敢えての外食を増やしたいものだと思った。

    🍷Amiel Gourmet

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    わたしが初めて「心理療法」という言葉に触れたのは、大学時代のことだ。わたしは文学部日本文学科を専攻していたが、中学や高校の授業では学ぶ機会のなかった「哲学」や「心理学」の世界を垣間見たいと、選択した。ユング心理学……中でも夢分析には強い関心を持ち、当時は毎日のように「夢日記」を記したものだ。そこには、子どもから大人に移行する転換期の、自分の精神状態が映し出されていた。

    また、哲学の教授が授業以外で行っていた「箱庭療法」にも関心があった。友人らが放課後、教授室で箱庭療法を受けたという話を聞くにつけ、興味をかき立てられた。しかし、当時のわたしは、教授に自分の内面を見られることに抵抗があり、行かずじまいだった。

    今となっては、日記を書くこと、猫らと過ごすこと、般若心経を綴ること、緑の中を歩くこと、夕映えを眺めること、波音を聴くこと、神社仏閣で手を合わせること……。気づけば、日常生活のさまざまな場面で、自らを癒せる場面は数多ある。しかしながら、加速度を増して森羅万象が加熱しがちな昨今の浮世では、癒す間もなく気付かぬうちに、心労は募りがち。

    🎨

    ほぼ、毎週火曜日の午前中に開催される女性の勉強会。今週は、バンガロール在住のアーティスト、Devika Sunderによるトークだった。やさしく穏やかな口調で語る彼女。子どものころは恥ずかしがり屋で、人と関わるよりも、一人の世界を大切にしていたという。

    彼女が17歳のころから、身体が痛み始めた。痛みは徐々に全身に広がっていく。いくつもの病院を転々とするも、原因はわからず。診察のたびに撮られるMRIやX線は蓄積され、しかしそれらに、痛みの原因は映らない。

    彼女がスクリーンに映した最初の作品は、自身のX線写真を用いたものだった。彼女の作品世界は、体内の宇宙を超現実的とも超非現実的ともつかない、独特の筆致によって構築されている。まるで海洋生物のような人間の臓器の描かれ方は、美しさと不気味さの境界線を揺らめくような妖しさだ。

    絵画を言葉で表現するの難しく、先入観を与えてしまう。ぜひ、彼女のサイトを見てほしい。

    https://www.devikasundar.com/

    Devikaはニューヨークのカレッジで人類学や美術史、ビジュアル・アートを学び、バンガロールでコンテンポラリー・アートを学び、アートサイコセラピストとしての臨床トレーニングを修了後、つい先日、シンガポールの芸術大学でアートセラピーの修士号取得して帰国したばかりだ。その間にも、さまざまな芸術関連の賞を受賞されている。

    近々、バンガロールのコラマンガラにあるスタジオにて、かつてから行っていたアートセラピーなどの活動を再開するという。

    絵を描くことは、瞑想であり、癒しでもあるというDevika。自ら痛みを経験しているからこそ、見える情景やイメージは、たくさんあるのだろう。「負」の経験を「正」に「生」に、転化し、さらには心身に痛みを抱える人々を救済すべく、アートで導き、穏やかな時間を提供する。

    彼女の身体の痛みは未だ、癒えていない。しかし、絵を描き続けることで、「痛みと交渉できるようになった」という。痛みを抱えながら描く彼女の在り方に、フリーダ・カーロを思い出していた。

    実はわたしは、この2週間のうちに、2本のインプラントを埋め込んだ。それに伴い口内をスキャンするなど、肉眼では見えない自分の身体の内部を見つめていた。また、3カ月前に右手の腱鞘炎を発症したことから、日本滞在中は週2回のペースで整体に通っていた。そのときに、筋肉や骨のこと、痛みの原因は異なる場所にあるということなど、諸々、学んだ。そのこともあり、筋肉の本などを入手し、折に触れて眺めている。

    人間の心と身体の相互関係、投薬では癒すことのできない疾患、逆に食事や精神状態で変化する肉体の状況など、これまでの人生で経験したことは無数にある。

    自分の右手首を撫でながら、腱鞘炎になった理由や意味について、思いを馳せる。

    🗽

    ところで、わたしが初めて「アートセラピー」という言葉を咀嚼したのは、ニューヨークでフリーペーパー『muse new york』を出版していたときのことだ。当時、アートセラピーを始められたばかりだった北川のぞみさんという方をインタヴューさせていただいたときのことだ。
    今、ネット上に転載していた記事を久しぶりに読み返し、彼女の足跡のたくましさと努力に感嘆した。ネットで検索したところ、現在もニューヨークにて、セラピーのお仕事を続けられていることがわかった。もう20年以上、お目にかかっていないけれど、ご活躍のご様子を垣間見られて、とてもうれしい。

    muse new york Vol.6 Winter, 2000

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    1枚目の写真は、本文とは全く関係のない「本日の久留米絣コーデ」。上下共に、野村織物の商品。このごろは、久留米絣が好きすぎて、先日収録のFM熊本(2008年より毎月)でも熱く語ってしまった。その他の写真はインディラナガール情景。Nicobarが日本風味を漂わせている。

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    今週の月曜は、夕刻まで新居で過ごし、二組のゲストを迎えた。

    午前中は、米国から旅行中の、夫のMIT(マサチューセッツ工科大学)アラムナイ(同窓生)の友人夫妻をお招きし、共にランチタイムを過ごす。インド系米国人のお二人は、インドにおけるMITアラムナイの活動にも尽力されている。

    昨今の米国事情。トランプ政権とハーバード大学の問題は、日本でも報道されている通り。トランプ政権は、多様性を求めるプログラムの廃止や学生の取り締まりを大学側に要求して対立。結果、税制上の優遇措置の取り消しや、新たな助成金の申請を認めないと通告するなど、事態は悪化している。同じボストンにあるMITとて他人事ではない趨勢。世界の随所で、困難の火種が燻っている。

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    午後は、先日訪問したThe Registry of Sareesで働く若者4名がご来訪。日本の絣(かすり)を実際に見たいということだったので招いた次第。せっかくの機会なので、日本の手工芸の美を体験して欲しく、絣以外の着物や羽織、帯、京友禅サリーなども引っ張り出し、トルソーも4体準備してディスプレイ。気づけば展示会状態だ。袋帯の結び方、間違っていると思うが、ご容赦を。

    先月の一時帰国時に、またしても購入した中古の着物や帯。わたしは「掘り出し物発見」の才能があると、自分でも思う。螺鈿引き箔の帯や、絞りの赤い着物や、琉球絣の着物など、いずれも古いが、仕付け糸がついた新品を、見つけ出してきた。1年前に購入した辻が花の着物も、本当に麗しい。いずれも、廉価である。

    着物だけでなく、久留米で開催された展示会で購入した久留米絣の洋服も飾り、詳細を説明した。久留米絣は、手織りと機械織りの両方がある。伝統的な手法は、糸を束ねて手括りで柄を作り、天然藍で染め、手織機で織る。

    一方、色彩の豊富な反応染料を用い、機械で織り量産される久留米絣もある。伝統柄もあれば、モダンにアレンジされたものもあり、用途や目的に応じて選べるのが魅力だ。いずれも木綿で丈夫、着心地がよいことには変わりない。ただ、手織りの風合いには、得もいわれぬ魅力があり……と書き始めると長くなる。

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    4人の若者ら。テキスタイルを学んだ人もいれば、建築から転向した人もいる。空間デザインを学んでいる人もいる。異なるバックグラウンドを持つ彼らは、しかし「人間の技」に対する関心が強い点において共通している。我が家にある漆器や陶磁器、茶器、博多人形、鉄瓶に銅器、江戸切子に曲げわっぱなど、日本の伝統工芸を食い入るように見ている。

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    今回、天然藍染の端切れを入手していたのだが、それらを眺めていたら、一人がくんくんと匂いを嗅ぎ始めた。「僕、藍(インディゴ)の匂いが好きなんです」と笑顔。みな笑いながら、しかし一斉に、端切れを手に取って、くんくんと匂いを嗅ぐ。

    決していい香りとは言い難い、独特の土っぽい、少し埃っぽい匂いがする。今、調べてみたところ、これは藍染の過程で発生する「藍玉菌」というバクテリアの活動によって発生するものらしい。ちなみにこの匂いには防虫効果があるという。ゆえに古くから、店舗などでは藍染の暖簾が利用されていたのだという。面白い。

    実際に、見て、触れて、匂いを嗅ぐ。体験することの尊さを、改めて思う。

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    何度か掲載している、祖母の写真。大正時代、100年以上前の久留米絣。特に集合写真の女子らの着物の、その柄の美しいこと。実際には、どのような藍の濃淡だったのだろう。カラーで見てみたいと夢想する。

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    なぜ、インドとパキスタンは争っているのか。その背景を、5年前に制作したセミナー動画で説明しています。「パラレルワールドが共在するインドを紐解く」シリーズ全5本。本当は全部、見ていただきたいところですが、少なくとも②の 「広く浅く」インドの歴史(インド・パキスタン分離独立)の「6分30秒」あたりから30分程度ご覧になると、諸々の理解が進むかと思われます。

    ◉パラレルワールドが共在するインドを紐解く② 「広く浅く」インドの歴史(インド・パキスタン分離独立)/インドの二大政党と特筆すべき人物/テロが起こる理由とその背景

    なお、このセミナーで使用している資料はGoogle Driveにアップロードしているので、ご自由にダウンロードしてご覧ください。

    【はじめに/今回の内容について】

    00:00 冒頭のあいさつ
    02:00 なぜわたしが、歴史を知っておくに越したことはないと熱く語るのか。その理由と背景
    (1988年、初の海外取材先である台湾でのエピソードに遡る)

    【インドの歴史 その概観】

    06:57 インドの歴史① 1947年の印パ分離独立以前
    14:51 18世紀ムガル帝国時代 インドは世界で最も繁栄
    15:09 ムガール帝国宰相が創始した「ハイデラバード王国」
    21:03 英国統治時代のインド帝国の地図 1931年
    23:20 1947年 印パ分離独立後の地図の変化
    25:04 インドの歴史② 1947年の印パ分離独立以降
    31:14 今日まで延々と続く「印パ分離独立」の大いなる余韻

    【インドの政党と、その歴史的背景】

    36:13 政党① インド国民会議派/コングレス
    37:32 政党② インド人民党/BJP
    37:55 インド・パキスタン分離独立に関わった主要人物
    38:45 国民会議派の主要人物 ①マハトマ・ガンディ
    39:33 国民会議派の主要人物 ②ジャワハルラール・ネルー
    42:30 国民会議派の主要人物 ③ヴァッラブバーイー・パテール
    44:53 国民会議派の主要人物 ④ムハンマド・アリー・ジンナー
    47:15 英国インド最後の総督 ルイス・マウントバッテン
    49:46 ダリット出自の偉人 ビームラオ・アンベードカル
    52:30 ネルー首相の長女、インディラ・ガンディ元首相
    54:25 インディラ・ガンディの長男、ラジーヴ・ガンディ
    55:32 ラジーヴ・ガンディの妻、ソニア・ガンディ

    【インドで起こるテロの背景】

    56:58 インドで起こってきたテロ/衝突の要因
    57:53 ❶イスラム過激派「ラシュカレ・トイバ」
    59:10 ❷スィク教とブルースター作戦(黄金寺院事件)
    1:02:37 ❸インド共産党毛沢東主義派/ナクサライト
    1:03:51 ❹タミール・イーラム解放の虎
    1:07:05 ヒンドゥー vs ムスリム聖地争い/アヨーディヤー
    1:12:02 アルヴィンド(夫)の親族を通して知るインドの歴史
    1:15:08 おすすめの映画① 英国統治時代と印パ分離独立
    1:15:18 おすすめの映画② 印パ分離独立後のテロ攻撃

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    どういうことだろう。去年に比べると、旅も、仕事も、ミューズ・クリエイションの活動も、3割程度に抑えているはずなのに、気づけば5月も半ば。予定では、旧居の内装工事にかかっているころなのに。

    ひとまずは、庭の柵の補強工事を終えた。向こう10年は安泰だろう。

    翻って新居の広大な方の庭は、まだ、だだっ広いまま。3年前に新居が完成した際には、この庭の3分の1程度をイングリッシュ・ガーデン風にして、ハーブや花を植えるつもりでいた。しかし気づけば、自分の中で「日本庭園」を作ることになっている。地下の「多目的すぎるホール」も、一部に畳を敷き、数寄屋造り風に仕上げるつもりだったが、今は全体を和風にまとめようかしらんと思っている。

    これらは来年だな。

    自分の嗜好も、じわじわと変化する。このごろはより一層の、ジャパネスク。このまま、この調子で行くのだろうか、わたしは。家もまた、住む人間の成長に合わせて変化していくものなのだな。

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    主人(あるじ)なき平日も、健気に開くハイビスカスの麗しく。

    旧居の庭にもハイビスカスを植えたいのだけれど、10年前から花がない。なぜなら、長男ROCKYが、蕾をモリモリと食べてしまうから。本当に食いしん坊が過ぎるのだ。だから、猫らの暮らす旧居の庭には、花を植えられなくなってしまった。

    一方で。数年前にアパートメントビルディングとなった隣の敷地。我が家との境界に、わたしの好きな「旅人の木(トラベラーズ・パーム)」を植えてくれてうれしい。塀の向こうに揺れる扇のような葉を眺めつつ、朝な夕なに、庭を歩く。

    歳月を刻む庭。

    急ぐなかれと、葉が揺れる。

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    撮ったまま、眠る写真の多いこと。最近、捉えた情景から、残しておきたいものを、脈絡なく、ここにまとめて、載せておく。

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    わたしの夫は、北西インド、パンジャーブ州の出身だ。パンジャーブ州はパキスタンにもある。そもそもは、広大だった一つの州が、1947年のインド・パキスタン分離独立によって分断された。

    1枚目の写真は、夫の母方の祖父母。夫の母方は、現在、パキスタン領となっているラホールの出自だ。祖母の両手首にあるバングル。これはわたしが結婚する時に引き継いだ。

    100年以上前のバングルは、1947年にラホールからデリーへ渡ってきた。その物語を思うとき、自分の過去がインドの歴史の渦の中に織り込まれているような、遥かな気持ちにさせられる。

    3枚目の写真は、母方の曽祖父。実業家であり政治家でもあった祖父が、自分の父(曽祖父)が他界した際に出版した冊子だ。

    “There is no religion greater than service, no divinity greater than humanity.”

    奉仕に勝る宗教はなく、人間性に勝る神性はない。

    彼の言葉が、染みる。

    以下、今朝、ミューズ・クリエイションのWhatsAppグループにてシェアした情報を転載する。

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    すでにご存知の方も多数かと思いますが、2025年5月7日本日より、インド軍がOperation Sindoor(オペレーション・シンドゥール)を開始しました。これは、インドによる、パキスタンおよびパキスタン占領下のカシミール(PoK)にあるテロリストのインフラを標的とした軍事作戦です。この作戦は、2025年4月22日にジャンムー・カシミール州のPahalgamで発生したテロ攻撃(インド人25名とネパール人1名の計26人が死亡)への報復として実行されています。

    これに伴い、カルナータカ州でも、本日午後3時過ぎよりサイレンが鳴らされMock Drill(避難訓練)が行われるそうです。学校やオフィスなどでは、すでに情報がシェアされているかと思いますが、平常心で、しかし無駄な危険行動をとることなく、状況を見守りたいものです。

    私事ですが、わたしたちは米国在住時、2001年7月にデリーで結婚しました。当時、わたしはニューヨーク、夫はワシントンD.C.で仕事をしており、二都市を行き来する暮らしをしていました。たまたま9月、わたしがD.C.に滞在していた時に、「米国同時多発テロ」が発生。自宅の窓から、国防総省(ペンタゴン)が黒煙を上げて炎上する様子を目撃しました。その後、ニューヨークの住まいの屋上(52階)から、煙をたなびかせるワールドトレードセンターのあたりを眺めた時には、膝から崩れ落ちるような心境に陥りました。それ以降のことは、本当に筆舌に尽くし難く、心重く人生の優先順位を見直した日々でした。

    10月に計画していたニューヨークでの結婚披露宴は当然、キャンセル。以降、ニューヨークでのビジネスを縮小し、2002年1月にマンハッタンの住まいを引き払い、ワシントンD.C.へ移住しました。その間も、炭疽菌事件やスナイパー事件などがあり、不穏なライフが続きました。

    その後、2005年11月にバンガロールに移住。2008年6月から2010年12月までは、ムンバイとバンガロールの二都市生活をしていました。2008年11月26日、我々の住まいのすぐ近く(コラバ)、夫のオフィスの目の前(ナリマン・ポイント)など数カ所で、「ムンバイ同時多発テロ」が起こりました。わたしたちはたまたま日本旅行中で、京都のホテルのテレビで黒煙が上がるタージマハル・パレスホテルを見て絶句しました。

    その後も、語るに尽くせぬ諸々のドラマがありました。

    なかなかにタフな環境を身近に経験してきましたが、今振り返れば、人生の、ほんの一時期のワンシーンのようです。あんなにも長い期間、落ち込む必要はなかったんじゃないかとさえ、今更ながら思います。

    そんな経験上、ひとつだけ確かなこと。それは無闇に心配しても、落ち込んでも、あまり意味はなかったな、ということです。当時よりも今は遥かに、真偽の定かではない情報が流れます。溢れます。こんなときに、根拠のない情報や、似非専門家の話に一喜一憂するのは、時間と心の無駄です。

    政府機関や学校などからの指示に従いつつ、必要最低限の情報は確保し、危機管理をすることは大切です。しかし、憂いすぎず、心配しすぎず、「毎日を大切に、明るく過ごす」ことが有意義だと思います。特に子どもたちに対しては、現状を客観的に伝えつつも、不安を煽るのではなく、いざというときの行動を話し合うなど、建設的な話し合いをされるといいかと思います。何より、家庭での会話や、時間を大切に。家族の結束を強める機会だとも思います。

    以下、参考までに、インドとパキスタンの分離独立の背景などを記した記録をシェアします。なぜ、今なお争い続けるのか。虚しくなりますが、知っておくに越したことはないと思います。

    ひとまずは南インド。バンガロールは比較的平穏な地域でもあり、空も明るい。今が盛りのおいしい🥭などを堪能しつつ、日々を慈しみながら暮らしましょう!

    ◉8月15日。インドの独立記念日と日本の終戦記念日が同じ日なのは偶然ではない。インド・パキスタン分離独立を巡って。我がインド家族の物語なども。

    ◉家族や親戚と話をしながら思う。日本人として、いかにインドに暮らし働き生きるかということ。

    ◉2012年7月/カシミール旅の記録(スリナガール&ペヘルガム)

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    インドの伝統衣装であるサリーへの関心を端緒に、これまで20年余り、インドの伝統的なテキスタイルに親しんできた。あくまでも、「サリーが好き」だという嗜好の域だったテキスタイルへの関心。2年半前に「京友禅サリー」を通して日本の着物世界を垣間見、1年半前の一時帰国時に立ち寄った中古着物店で伝統的な着物のすばらしさに衝撃を受け、関心は益々高まった。

    学びの過程でありながら、この1年半、いくつもの展示会やトークを実施した。機が熟すのを待っていては人生が足りないので、動きながら学ぶ。軌道修正しながら進む。大切なのはプロセス。過程。気づけばテキスタイルを通しての活動は、我がライフワークの一つとなりつつある。もちろん、わたしは専門家ではい。その立場をわきまえつつ、自分が経験した範囲内で、ストーリーをシェアしている。

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    インドのテキスタイル。歴史はインダス文明時代に遡る。数千年前の技術が今なお変容しつつも引き継がれている様子に感嘆する。陸をたどり、あるいは海を渡って、地球の随所で発生してきた人間の手技の匠に心を動かされる。極東の島国、日本に、大陸の技がたどり着いて育まれ、極まる浪漫に思いを馳せる。

    過去数十年。テクノロジーの絶大なる進化で、人類史上例を見ない豪速で、我々の生活環境は変化している。テクノロジーの恩恵を受けつつも、しかし自分の手を使うこと、脳みそを使うこと、工夫をすること、試行錯誤することは、益々、大切になるだろう。

    人間の手作業を尊重し、維持し続けることは、時代の流れに逆行することではない。人間が、人間であるために、絶対的に守られるべき「砦(とりで)」だと思う。そもそも、便利が過ぎると楽しくない。創造の喜びがない。疲労のあとの達成感がない。

    先日、The Registry of Sareesを主宰するAllyに声をかけられ、オフィスを訪れた。The Registry of Sareesは、手紡ぎ、手織りテキスタイルの研究機関だ。詳細は、当該サイトをご覧いただきたい。また、わたしが以前訪れた展示会の記録も写真とともに残しているので、以下、添付する。

    The Registry of Sareesの同じ建物内に、同団体の商品販売部門であるYaliが併設されている。バンガロールの老舗サリー店、Mysore Saree Udyogとのコラボレーションにより生まれたという、手織りのテキスタイルによる衣類が並んでいる。 

    ここには若きスペシャリストたちが在籍し、テキスタイルの研究やファッションデザイン、あるいは展示会のデザインなどを手がけている。どれもが創造性に満ちていて、本当に興味深い。これまで幾度となく記してきたが、インドは若者人口が多いこともあるけれど、祖国の伝統を学び守り発展させようとする若い力が随所で萌芽していると感じる。日本の若い世代(年齢問わず、能動的に動く世代)の人たちに見てほしい……と、いつものごとく思う。

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    この日、さまざまな布を見せていただいた。

    インド亜大陸では5000年も前から、綿が栽培されてきた。写真にある茶色い綿は、染めたのではなく、もとから茶色い種なのだという。触ればふわふわと、子犬のようだ。英国統治時代、廃絶された種の一つだとのこと。当時、綿といえば「白」が主流になっていた。先日、MAP (Museum of Art & Photography)で開催されたテキスタイルのシンポジウムでは、ほんのりと赤いコットンの存在を知ったが、茶色もあったのだ。

    実は、1980年代に農学研究者が、シードバンクにあった数百年前の種をパラッと蒔いたところ、気づけば発芽していて、茶色い綿花が育ったという。しかもその農学研究者の名前が「Khadi」だというのだ。

    蘇った茶色いコットンは、染められることなく織られ、濃厚なミルクティーのような自然の風合いの布に姿を変える。背後にあるクッションがそれだ。このコットンを用いた衣類は、インディゴ(藍)のシャツなどと並んで、Yaliでも販売されている。

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    そのほか、マイクロスコープで布の表面を見せてもらい、細かな紋様に感嘆したり、金糸の造形(細い糸の周囲に超絶細い金箔が巻かれている)に驚嘆したり……。諸々、書きたいことは尽きず。

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    さて、この日、Allyから招かれた背景には、近々ムンバイで開催される催しへのご協力がある。ご縁は連なり、経糸(たていと)、緯糸(よこいと)、織りなされてゆく。この件については、長くなるので、後日改めて記したい。

    🌱大地の恵みを、いただきます! 12月5日「世界土壌デー」に、遍く命を育む「土」の世界を、掘りさげ学ぶ@ARAKU COFFEE (2021/12/6)

    🌱いにしえの交易、文化、宗教、地理……。歴史を映す「布の海」に耽溺す。(2023/12/21)

    🌳Roots & Route。ルーツとルート。ミュージアムで学ぶ、テキスタイルの歴史と現在

    ◉The Registry of Sarees

    ◉Yali

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    先日、在ベンガルール日本国総領事館の中根総領事から晩餐のお招きを受けて、我々夫婦は総領事公邸へお伺いした。わたしは、先日の一時帰国時、自分のために購入し、「ナマステ福岡」でも着用した赤い京友禅サリーを選んだ。日本の色合いだな……と改めて思う。

    昨年、わたしが急遽、コーディネートすることになったJWマリオットホテルでの着物ファッション・ショーに、中根総領事も参席されていた。その流れで、今年の天皇誕生日式典では、京友禅サリーの展示をさせていただく運びとなった。

    着物や京友禅サリーの展示だけでなく、日本の伝統的文化や工芸品の紹介、また日本とインドの関係史など、ここ数年、インドの人たちを対象とした催しやイヴェントを何度か開催してきた。かような活動に関心を持っていただいたことから、今回、夫婦ともども、ご招待をしてくださった次第だ。

    美味なる日本酒や日本料理をいただきつつ、夫もわたしも普段通りの饒舌さ(インド基準)で、会話は弾む。わたし自身が今、関わっている日本とインドのプロジェクトなどについても、ご相談する好機となった。

    天皇皇后両陛下のお写真を眺めつつ、日本国の政府機関を象徴する紋章でもある「五七桐(ごしちきり)紋」が施されたグラスを手にお酒をいただく。何とも感慨深い。温かなおもてなしに心より感謝する。

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    折に触れて記しているが、海外に住むほどに、自分が日本人であることを強く認識する。日本にいれば、わたしをして「坂田さん」「美穂さん」となるが、海外ではおおよその場合、「日本人のミホ」「日本人女性のミホ」あるいは単に、「あのジャパニーズ・レディ」という具合に、はじめに「日本」ありきだ。

    ましてや、我が家のように、夫がインド人となると、日常生活や会話の中にも、「日本では」「日本人は」というフレーズが頻出し、日本を客観的に捉えながら語ることが多い。従っては、好むと好まざるとに関わらず、自分の行動は一個人のものに留まらず、「日本」という国のイメージにさえ影響を与えることになる。日の丸が常にそばにある。

    「いつでも日の丸を胸に収めて、民間外交を堂々とやりなさい」

    明治時代、ボンベイに渡りマッサージ医院を開業した、かつて「からゆきさん」だった島木ヨシさんの言葉だ。マハトマ・ガンディやネルーにもマッサージを施していた彼女の経験たるや……。

    からゆきさんについては、かつてセミナー動画で言及し、さらにはYoutuberの眞代さんからのリクエストでコラボ動画も作った。そのときに使用した資料もGoogleDriveにアップロードしているので、ぜひご覧いただければと思う。闇に葬られた日本の近代史の片鱗を知るのも有意義だ。

    * * *

    「国際親善の基は、人と人との相互理解であり、そのうえに立って、友好関係が築かれていくものと考えます。国と国との関係は経済情勢など良い時も悪い時もありますが、人と人との関係は、国と国との関係を越えて、続いていくものと思います」

    これは、上皇天皇のお言葉だ。

    2013年、わたしはインドに来訪されていた天皇皇后両陛下(現在は上皇上皇后両陛下)御拝謁のお茶会に招待された。その一連の経験は忘れがたく、我が人生で一番、ありがたくも緊張した時間でもあった。自分でも気づかなかった「自分の中の日本」に、自分でも驚いたものだ。この時期、わたしは、天皇皇后の外交の記録動画などを、Youtubeを通して片っ端から拝見した。

    ご尽力とご配慮、ご記憶力……どれをとっても、尋常ならない卓越の域だと、心底、感銘を受けたものだ。

    インド生活20周年。節目の年にふさわしい出来事が続く。急がず、欲張らず、丁寧に、真摯に。自分を生かせる仕事をこれからも続けていこうとの思いを新たにする。

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    👘家族の記憶を紡ぎながら、色褪せない伝統衣装。着物ショーで躍動する半世紀前の和装(2024/10/28)

    🇯🇵チェンナイにて。天皇皇后両陛下御拝謁のお茶会参席を巡る個人的な体験(2013/12/07)

    🇮🇳🇯🇵「からゆきさん」を探る〈前編〉貧しい時代の日本。身を挺して海外で働いた女性たちの歴史を紐解く

    🇮🇳🇯🇵「からゆきさん」を探る〈後編〉「からゆきさん」を経てボンベイでマッサージ店を起業。タフな女性の生き様に見る民間外交。誇り高き信念。

    「からゆきさん」動画で使用した資料(Pdf)をこちらにアップロードしています。
    https://drive.google.com/file/d/1RamguJFCc3BZQuHF5MXIC2fvMv5zLZy3/view?usp=sharing

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    日曜の夜、バンガロール市街東部のホワイトフィールドへ赴いた。目的地は、和食レストラン「Hachi by Tenya」。新規開店前日の試食会に招かれたことから、浴衣姿で参上した。有松絞りのぶどう柄が気に入っている。

    「Hachi by Tenya」というからには、日本の「天丼てんや」と関係があるのかしら……と思いネットで調べて驚いた。「天丼てんや」は、ロイヤルホールディングスが運営していたということを知ったからだ。以前も何度か記した通り、福岡生まれのロイヤルは、わたし個人にとっても忘れ得ぬ思い出が詰まった「日本における外食産業の先駆け」だ。高校卒業後の春休み、わたしが初めてアルバイトをしたのは、かつて九州大学近くにあったロイヤルホストだった。

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    さて、複数の飲食店を擁するコンプレックスに到着。開放的で、何とも心地よい空間だ。ここの「BLR Brewing Co.」というブリューパブと「天丼てんや」がコラボレーションにより誕生したのが「Hachi by Tenya」だという。招待された時刻の7時30分から、わずか5分ほどしか遅れていないのに、すでに日本人ゲストで満席。わたしの席は、友人の志乃さんと伊藤夫妻と同じテーブルでうれしい。

    今回、招待してくれた双日(2021年、ロイヤルホールディングスと資本業務提携)のK氏は、わたしのInstagramをご覧になり、わたしのロイヤル愛をご存知のうえで、招待してくださったとのこと。聞けば、伊藤氏もロイヤルホストでのアルバイト経験があるとのこと。なんという偶然! 諸々、青春時代の思い出が蘇るが、ひとまずは現在に集中。

    前菜をはじめ、寿司や天ぷら、麺類が供されたが、さすが「てんや」だけあり、天ぷらが特においしい! ドリンクはBLR Brewing Co.のメニューから選べる。規模感といい、ロケーションといい、展開方法といい……さすがだ。

    インドでは、業種を問わず「新規開店」はハードルが高い。中でも飲食店は、インフラストラクチャーの整備や内外装工事、リカーライセンスの取得、従業員教育に食材調達網の確保など、諸々の段取りが、超絶たいへん。予定通り動かないのが普通なので、当初の予算を大幅に上回ってしまいがち。ゆえに、なるたけ小さめに余白重視でスタートし、体力を温存しつつの柔軟な展開は、切り札のひとつだといえる。

    K氏曰く、当面は、この店をインドのトライアル店舗としてマーケティングしつつ、メニュー開発はじめ今後の展開を試みるとのこと。我が家の近くにもぜひオープンしてほしいものだ。さて、宴もたけなわ、2杯目のグラスが届いた矢先に、閉会のご挨拶。え? もうおしまい?? 早っ……と思いつつも、聞けば、9時半からはインド人ゲストが招待されているという二部制だとのこと。

    ……さすがだ😅

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    自宅に戻り、ロイヤルホールディングスのサイトで沿革を読み、創業者である江頭匡一氏の「私の履歴書」(日経新聞/1999年)を再読する。タタ・グループの元会長であるラタン・タタと並んで、記憶に残っている連載だ。江頭氏もラタン・タタも、空に憧れ、パイロットであった共通項がある。わたし自身の空への憧れが、二人をより一層、魅力的にみせているのかもしれない。

    江頭匡一氏は、我が父とも面識があった。二人は同じ、嘉穂高校の出身でもある。どのような関わりがあったのかは知る術がない。戦後の高度経済成長期からバブル経済に突入するまでの日本の食文化の変遷は、わたし自身が体験してことでもあり、文字を目で追いながら、映像が脳裏に思い浮かぶ。

    1951年。日本航空の東京発、大阪経由、福岡着が、わずか1日1便しか飛んでいなかった時代に、彼は米軍基地での経験を生かして、機内食と空港レストランをはじめた。それがロイヤルの原点だ。1960年代、飲食業は「水商売」とみなされ、銀行からの融資を受けにくかった時代に、しかし松下幸之助をして「日本で最高の経営理念を持っているのは松下電器とロイヤルだ」と言わしめた。

    1968年、江頭氏は45歳で初渡航、約1カ月かけて欧米20都市を巡り飲食業界を視察。洗練された雰囲気とサーヴィスは欧州に、合理的な経営は米国に学んだ彼は、1969年、日本で初めてのセントラルキッチンを導入。1971年、モータリゼーションを見込んで北九州にロイヤルホスト1号店をオープンした。「外食産業」という言葉を日本に定着させ、1978年には外食産業として初めて株式上場を果たす……。

    店づくりに大切な哲学(フィロソフィー)に思い至るまでの経緯もまた面白く、だめだ、紹介したい話題が多すぎて尽きない。

    最後の写真は、今回の一時帰国を終えて、福岡空港から成田へ飛ぶ前に立ち寄った空港内のロイヤルホストの朝食。

    🗞『私の履歴書』江頭匡一(1999年)

    【長くなるが、2022年に書いたブログの記事を加筆修正して転載する】

    ◎高度経済成長期の昭和40年、福岡に生まれた我。外食産業も急成長の時期。ハイカラを好んだ両親に連れられ、新天町「ロイヤル」(ロイヤルホスト前身)によく訪れた。

    ◎わたしが、初めて「ナイフとフォーク」を使ってパンケーキを食べたのはロイヤル。ハンバーグステーキ、グラタンにドリア……。5歳か6歳のころ、生まれて初めて「イタリアン・ピザ」を食したのも新天町ロイヤル2階だった。

    ◎オレンジジュースといえばバヤリースの時代。米国直輸入の果汁100%のオレンジジュースは父の好物。母はショッキングピンクのゼリーがたっぷり入ったサンデーを。私と妹は、ストロベリーパフェやプリンアラモード、くり抜いたオレンジや、メロンの皮が器のシャーベットをよく食べた。

    ◎我が初のアルバイトはロイヤルホスト。1984年高校卒業後の春休み時給430円。面接日「明後日までに暗記してきてください」と渡された分厚いメニュー、百を超える料理名と値段、添えるカトラリーや調味料もすべて暗記して初日に挑んだ。

    ◎バイト初日は、左手にグラス3つ手首におしぼり、右手にグラス2つ「トレーを使わず」供する訓練。ディナープレートも左手に3枚。右手に1枚。複数テーブルを一人で担当。3秒以上の停止は禁止。常に動いてコーヒーやお冷の補充。サンデーやパフェは自分で作る。

    ◎店長曰く「ロイヤルホストには和食がありません。家庭の味には敵わないから。これは江頭の方針です」「スパゲティが硬か。茹でが足りんばい、と言うお客様がいらしたら、これが本場の味だと伝えてください」。「アルデンテ」というコンセプトを日本の大衆にもたらしたのも江頭氏。

    ◎別のロイヤルホストのキッチンでバイトをしていた高校時代の男友達。当時、料理の多くはセントラルキッチンで作られた冷凍物を再加熱し盛り付けるだけだから、調理はさほど難しくなかったという。そんな中「キッチンで、腕前が試されるメニューが2つあるっちゃん。何と思う?」

    ◎考えるも結局わからず、彼が種明かし。「一番難しいのはパンケーキ。あれは、注文受けてから、自分で焼かないかんとよ。均等に焼くの、難しいっちゃん」「あと、サラダの盛り付け。立体的にせないかんと」「俺はどっちも、うまくできるようになったけどね」

    ◎「俺、時給が決まっとうけんって手抜く奴、好かんっちゃん!」「私も! わかる〜。同じ時給でも、私たち、一生懸命働くよね」「仕事って、お金のためだけじゃないと思わん?」ロイヤルホストでの初バイトで学んだことは多い。自らの労働で糧を得るということ。

    ◎初めてお給料を手にした18歳の春から幾星霜。仕事に対する姿勢や熱意は、あのころと、今もさほど変わらない。

    🥞ロイヤルホストで昔日懐古。母校を訪ねて40年前を偲ぶ。(2024年6月)

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