インド百景 2021-2025

天竺の、風に吹かれて幾星霜。ライター坂田マルハン美穂が、南インドのバンガロール(ベンガルール)から発信

MUSE INDIA / HOMEPAGE

✈︎ 過去ブログ/2005〜2025

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    故郷を離れて40年。父の他界から20年。母のライフに新たな試み。そしてわたしは来年、還暦。諸々の節目。

    父が他界したときを除いて、福岡に2週間もの長い間、滞在したのは、多分初めて。旅行前は、1泊程度でも一人旅をしようと思っていたが、結局はほとんど予定をいれず、それが本当に幸いした。

    先日も記したが、まず最優先すべきは自分の体調。旅行前、バンガロールの気候の変化(猛暑から雨季に入って急に涼しくなった)から、少し咳が出ていた。それがフライトその他で悪化してなかなか治らず。ようやく咳が止まったころ、今度は腰回りの筋肉痛が発生。香椎の鍼灸院で2回に亘り施術してもらい、今は小康状態だ。

    他者から見ると、わたしは常に動いているように思われがちだが、「自分比」では、このごろは本当に「余白の時間」を尊んでいて、意識的にスローダウンしている。睡眠時間はしっかりと。疲れた日には昼寝を。それでも年月を重ねるに伴い、疲労回復に時間がかかる。

    母が歳を重ねる分だけ、わたしも歳を重ねており。泣いても笑っても、等しく時は流れ、生きとし生けるもの老いてゆく。その現実を見つめながら、この先、わたしは、どう生きるか。自問を繰り返す今回の故郷。

    写真は近所で見かけた紫陽花。梅雨が近いことを知らせてくれるかのように。

    そして先日、天神のリサイクル着物店で購入した羽織や帯、そして帯締めなど。

    インドの友人らからのリクエストに応えての羽織。そして、上品な色合いの帯2本。この帯の手法をなんというのか、調べがつかない。ご存知の方がいらしたら、教えてください。

    欲しかった浴衣を購入する機会を逸したので、明後日からの東京では、少し買い物も楽しもう。

    心と体と魂と。調和させながら歳を重ねるのは至難の技。自分に負の暗示をかけることなく、しかし無理をすることなく。まずは自分を大切に生きよう。

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    一昨日、母と共に、今後お世話になる「ケアセンター」を体験してきた。今後の方針が確定したあと、今回の経緯などをまとめ記そうと思う。

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    昨日は、美砂さんと2年ぶりに会い、香椎でランチを共にした。

    彼女のお母様は、飯塚にて、我が両親の出会いのきっかけを作ってくれた方。美砂さんとは、子どものころに顔を合わせたことはあったものの、きちんと話をしたのは、大人になってから。

    1992年、東京。わたしの父から彼女の母親の手に渡っていたらしき、わたしが自費出版した『モンゴル旅日記』。それに影響を受けたという彼女も、東京に住んでいたことから、わたしが当時暮らしていた世田谷区用賀の古びたアパート(竹陣荘!)に遊びに来てくれた。デザインやファッション関係の仕事をしていた彼女はその後、パリに移住。

    1994年、パリ。フリーランスのライター兼編集者として1993年に独立したわたしは、「1年のうち9カ月休みなく働き、3カ月まとめて休暇を取る」という目標を掲げていた。それを有言実行。まずはパリの美砂さんの家を訪ね、旅の起点として数日間、滞在させてもらった。彼女は、わたしのモンゴル旅日記に影響を受け、モンゴルからシベリア鉄道の旅を敢行していた。

    1995年、パリ。わたしは英国での3カ月の語学留学のあと、パリに2週間近く滞在した。そのときもまた、彼女の部屋に居候させてもらった。

    1996年、ニューヨーク。わたしとアルヴィンドが出会って直後のころ、彼女もたまたま、ニューヨークに遊びに来ていた。その数年後にも、ニューヨークへ遊びに来た彼女と会った。

    2012年、バンガロール。すでにフランスを引き払って日本に帰国していた美砂さんが、妹の美陽さんと二人でバンガロールへ遊びに来た。たまたま我が家に立ち寄ったその日。我が夫の40歳の誕生日会を「1日遅れ」で開催していた。驚くことに、美陽さんは、その日が40歳の誕生日だったので、一緒に祝福した。

    美砂さんとは、その後も一時帰国の際、折に触れて会ってきた。会うたびに、遠縁の親戚のような親近感を覚える。

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    お互い、高齢の母を持つ立場としての話を皮切りに、しかし、今後の自分たちの「やりたいこと」に向けての話に花が咲く。彼女もわたしも、海外在住経験が長いこと、アートやファッションに関心があることなどに加え、昨今では日本の伝統文化への関心が高まっていることもあり、今後、福岡で、あるいはバンガロールで、共に仕事ができそうである。

    今回の福岡滞在は、母の次なるステージの段取りのために過ごしたが、次回の福岡では、サリーの展示会やトーク・イヴェントなども実施することになるだろう。わたしは身一つで、いつでもどこでも、1時間でも10時間でも、インドに限らずさまざまなテーマで語れる。プレゼンの資料はすべてクラウドに保管されているから、すぐにも引き出せる。秋の一時帰国が楽しみになった。

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    ランチのあと、美砂さんと別れ、わたしは北へ向かって歩く。以前は海だった埋立地。かつての面影なき団地群を歩き目指すは、イオン。ここで家の買い物などをすませるために。入店した矢先、ペットコーナーに猫や犬がいて和む。すっかり欠乏している「猫成分」を少しだけ補給。そして正面にある未来屋書店へ。

    店頭に「味わい深い書籍」が並んでいる。新居の「月光ライブラリ」に置きたい麗しき書籍の中から、何冊かを購入。カートに積んで店内を巡り、スーパーマーケットで日用消費財などをまとめ買い、さすがに重いのでタクシーで帰宅した。

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    昨今の一時帰国では、故郷福岡に対する見方や、実家のある名島への印象が、徐々に変化している。海外と日本を結ぶ玄関口としての歴史。古代日本の息吹が聴こえる「玄界灘」。地元の人たちは「観光資源が少ない」というけれど、それは多分、灯台下暗し。福岡の魅力を認識していないだけだと思う。この地の豊かさは尽きない。

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    最後の写真は、母が行きつけの近所の美容室へ、母を送りに行ったときに撮影。美容師のマキエさんは、わたしたちが幼少時に住んでいた東区名島汐見町(現在は千早に統合)にあった美容室で働いていらした。わたしが小学生のころに、何度か髪を切ってもらったことがある。それ以来の、約50年ぶりの再会。

    にも関わらず、マキエさんは開口一番、

    「あら〜、変わらんね〜! 全然、変わっとらん!」

    いやいやいや。だいぶ変わったろうもん! と大笑い。

    諸々、時空を超えすぎた。

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    西鉄名島駅から電車に乗って3駅。西鉄香椎駅で降りる。母の「補聴器」の具合を見てもらったあと、界隈を散策し、昔懐かしロイヤルホストでランチをとる。

    1945年8月15日の敗戦以来、連合国軍の占領下にあった日本。サンフランシスコ平和条約によって、1951年に主権を回復した。ロイヤルの歴史はその年、就航が再開した国内線の「機内食提供」が端緒だ。

    初代社長は江頭匡一氏。1953年、ロイヤル中洲本店を開業。大濠公園の湖畔にある「花の木」の前身だ。ちなみに花の木は、パンデミック以前に、家族と何度か訪れてきた。とても雰囲気のよいフレンチだ。

    江頭氏の情熱に育まれた新天町のロイヤル。セントラルキッチンやファミリーレストランのパイオニアとしてのロイヤルホスト……と、ロイヤルの話だけで延々と語れてしまう。福岡におけるロイヤルは、高度経済成長期の象徴のような存在だったこともあり。

    1984年、今からちょうど40年前。高校を卒業した直後の春休み、わたしは初めてアルバイトをした。それは、今はなき「ロイヤルホスト九大前店」だった。時給430円ながらも、アナログ時代のウエイトレスは、メニュー、料金を全暗記。今よりもかなりタフな労働環境だったが、非常にいい経験となった。

    このロイヤルホスト香椎店にはまた、いくつもの思い出がある。最後の記憶は20年前。父が他界した時に利用した葬儀場が、このロイヤルホストの向かいだった。ワシントンD.C.から帰国し、父の屍と対面し、そのまま葬儀店へ移動し、通夜や葬儀の手続きを終え、疲労困憊の深夜、妹と二人でここで遅い夕食をとったことを思い出す。

    あのときは、豚の角煮定食を注文した。テーブルに届いた直後、ワシントンD.C.で日本行きのヴィザを手配していた夫から、日本大使館が発行を渋っているとの連絡があり、店の外に出て職員の人と交渉をせねばならなかったことを思い出す。あとにも先にも、あれほどまでに理不尽な対応を受けたことがなかったと怒りさえも鮮明に思い出されるが割愛。

    さて、久しぶりにロイヤルホストを訪れたら、メニューのビジュアルに圧倒される。内容は昔を思い出される「洋食」がメインになっていた。40年前、アルバイトの面接を受けた時に店長から江頭氏の理念をいろいろと教わったのだが、その中に「家庭では作れない洋食を提供する」と同時に、「家庭料理には敵わない和食の提供はしない」という話があった。

    だから一時期、和食メニューが入った時には、江頭氏の思いは継承されなかったのだなと感じたものだ。

    メニュー構成についても語りたいところ多々あるが、この辺にしておく。母はハンバーグを、わたしは懐かしのコスモドリア……と思ったが、シーフードドリアにした。想像していた以上においしく、二人とも完食した。

    ところで、創業者である江頭氏のストーリーは非常に興味深い。産経新聞の「私の履歴書」の連載(1999年)を読んで、わたしは感銘を受けたのだった。

    今、探したところ、ロイヤルホールディングスのホームページにてシェアされていた。外食産業に関わる方はもちろんのこと、日本の高度経済成長を支えた一人の実業家の生き様に興味のある方は、是非ご一読を。

    私の履歴書/江頭匡一
    https://www.royal-holdings.co.jp/co/story/

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    やれやれ、わたしといえば、現在、疲労困憊でそろそろ寝ようかというときに、何をロイヤルホストの話題を書き込んでいるのだろう。いや、思うところあれこれあったので、これもまた現実逃避か。文字を綴ることは、わたしにとって瞑想のようなものでもあり。文章が支離滅裂かもしれぬが、ご容赦を。

    さて、ランチのあと、母は一足先に帰り、わたしは自分の用事をすませたあと、腹ごなしに母校の香椎高校まで散歩する。新しい校舎ができていたが、旧校舎も残っている。卒業してちょうど40年。女子バスケ部の部室があった2階を眺めたり、嫌というほど走った運動場を眺めたり……40年が巡り巡る。

    部外者なのに校舎をうろうろしたら、すれ違った体育会系男子らから、「こんにちわ〜!!」と元気よく挨拶されたので、どこぞの先生のふりして「こんにちわっ!!」と挨拶を返した。爽やかすぎてたまらん。

    「国語の教師になって、母校に戻ってきたい」との夢を抱いて卒業した40年前。米国経由でインドに暮らす未来が待っていようとは。なんてこったい。

    人生は、喜劇だ。

    この先はもう敢えて、悲劇を消し消し、ひたすらに喜劇を綴り、演じ続ける。

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    花曇りの金曜日。咳も収まって心軽く、大濠公園を目指す。湖畔にあるロイヤル・ガーデンカフェで、DJ/ラジオパーソナリティの相越久枝さんと、待ち合わせていたのだった。

    久枝さんとの出会いはFM熊本「グローバルビート」の仕事。2008年1月から現在に至るまで、毎月インドをお伝えし続けて16年余り。久枝さんは、その初代DJでいらした。

    初対面は、FM熊本のオフィスを訪問した2008年秋。以来、福岡市内にお住いの久枝さんとは折に触れてお会いしてきた。Cross Fmにも2度、出演させていただいたこともある。当時の放送、以下のブログから聴くこともできる。久しぶりに聴いたら、令和禁止表現も出てきたりして、なかなかに面白い。

    以来、時折お会いしていたと思っていたのだが……よくよく記憶を辿れば、最後にお会いしたのは2016年の秋、つまり8年も前だった。この8年間のあいだにも、お互い環境や思うところの変化は多々あり。

    しかしながら、同世代であり、なおかつ久枝さんとは感性が通じ合えるので、ブランクを感じることなく、とても楽しい時間だった。食後は湖畔を歩いて場所を移し、和風喫茶で抹茶をいただく。

    和の風情も心地よく、インバウンドの旅行者の多さがむしろ自然で、時代も人も場所も移り変わる……。この日もまた思うところ多く、有難き再会を心に刻む。

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    人生2周目に入るに際しての、指針のようなもの語り合ってのち、再会を約束して別れる。

    帰路、天神に立ち寄り、岩田屋の地下で、母との夕飯のための寿司刺身などを購入。鮮度高い美味しい料理を味わえるのは、福岡滞在中の至福のひとつだ。夕方のタイムサーヴィス時など「こんなに新鮮でおいしそうな寿司刺身を……この値段で売っていいの?? とむしろ問いたくなるような。

    さて、今日はこれから、母と共に「未知なる場所」へお出かけだ。どうなることやら。すべての経験は未来への糧になる。多分、インドにおけるミューズ・クリエイション(NGO)の活動にも、示唆を与えてくれるはず。学び楽しもう!

    😍福岡cross fm『LADY STUDY GO☆』スタジオ収録(2009 年6月/全4回)
    https://museindia.typepad.jp/2009/crossfm.html

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    2週間弱の滞在期間に、できるだけのことをすませたく。人が年を重ねるに比例して、家屋もまた年を重ねる。経年劣化の家電その他。一時帰国の度に買い替えたり修理を頼んだり。

    細々とした不具合の修繕や、片付けや、不足分の調達など。今ではオンラインで買い物ができるので、その点においては非常に便利。しかし、わたしとて、歳を重ねており。

    バンガロールを離れる直前、急に涼しくなって少し喉を痛めていたところに、フライトでの乾燥と旅の疲れで、数日間、咳き込んでいた。そもそも、喉を痛めやすいので普段、気をつけているのだが、今回は回復が遅かった。
    福岡滞在を長めにしておいて、よかった。

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    実家は、築25年余りのマンション。新築時からトラブル多発のインド住環境に慣れている身としては、諸々の手配も「楽勝」と言いたいところだが、「すでに廃番」とか「次回のトラブル時は全部取り替えが必要」など、インド的なごまかしが利かないのは良し悪しだ。

    人も、住まいも、歳を取る。

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    話は変わるが、昭和世代の福岡人にとって、デパートの象徴といえば、多分「岩田屋」。日本を離れて28年。しばしば言及しているが、わたしの一時帰国時は、岩田屋と大丸を行き来して買い物をすませるのが常だ。

    岩田屋の創業はいつだろうかと調べてみたら、その前身は1754年。江戸時代の宝暦4年と、実に古かった! 「岩田屋呉服店」が端緒で、1935年に百貨店としての岩田屋が誕生したらしい。

    我が子ども時代の高度経済成長期は、天神の中心で華のような存在だったが、三越が参入したあたりから次第に「後退した印象」で、気がつけば、目抜き通りから外れた奥に移設されていた。

    その後、紆余曲折あった様子だが、ともあれ、今でも昔ながらの「岩」のロゴを見ると、懐かしくも安心する。今回は、岩田屋にて、柴田慶信商店の曲げわっぱ、お気に入りの飯切をもう一つ購入。なかなかにいいお値段だが、兎にも角にもクオリティが高い。

    そして今回は、南部鉄器の薬缶も購入。「なんちゃって」ながらも、茶道の雰囲気を演出するのに、最低限の道具だけでも揃えておきたい。大きめの鉄瓶につき、普段からこれで湯を沸かして鉄分補給をするつもりだ。

    写真は、最上階の催し場で開催されていた「日本伝統工芸染織展」の様子。久留米絣や友禅、絞りなどの芸術作品が並び、本当に、すばらしい。

    諸々、綴りたいこと尽きぬが、写真だけでも残しておく。

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    私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する(ウィトゲンシュタイン)
    The limits of my language mean the limits of my world. (Wittgenstein)

    などと、「つや〜なこと(博多弁で「かっこつけたこと」の意)」を書いてみたが、なんのこっちゃ。

    思うところ多くして抽象にかわす。

    現在わたしは、いくつかの言葉の意味と、その世界を、知る必要がある。身内に高齢者がいる日本人であれば、大半が知っているであろうこれらの言葉を、わたしは今、新しく理解する。

    この国のありがたき仕組みを、正しく理解して、享受するために。

    介護保険。介護保険申請。訪問調査。主治医意見書。介護認定審査会。要介護(要支援)認定結果通知。要介護1。要介護2。要介護3。要介護4。要介護5。地域包括支援センター。いきいきセンターふくおか。介護予防ケアプラン。介護予防サービス計画。ケアマネージャー(介護支援専門員)=ケアマネさん。通所介護。通所サービス(デイサービス)。介護予防型通所サービス。通所リハビリテーション。訪問介護。訪問サービス。ホームヘルプ。ホームヘルパー=ヘルパーさん。訪問入浴介護。訪問リハビリテーション。訪問看護。居宅療養管理指導。福祉用具貸与。特定福祉用具販売。住宅改修費支給。短期入所生活。療養介護。特定施設入居者生活介護……!

    高齢化社会世界は、これらが日常。

    老いも若きも詰まるところ、どう生きるかは自分次第。その花を美と見るか、醜と見るか、目にも留めぬか。

    選択を繰り返しながら生きてきた果ての生き方、行く末を。

    素足で大地を踏みしめ歩くが如く。最終章にこそ、尊厳を。と、文字にして認めよ。

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    料理の写真は、一時帰国の際には必ず立ち寄る岩田屋(福岡の老舗デパート)の、やはり必ず立ち寄る蕎麦屋にて。今回は野菜天ざるそばを味わう。がっつりゴボ天がおいしい。梅干しの天ぷらも不思議美味。

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    2004年5月27日。今からちょうど20年前に、父は他界した。末期の肺がんを宣告されてから4年余り。闘病と復活とを繰り返した果てに66歳で亡くなった。

    自分の年齢が、父の晩年のそれに近づくにつれて、「まだ、死んではいられない」と思っていたであろう父の無念が、現実味を帯びて沁みる。

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    昨日は母と妹と3人で、佐賀県鳥栖市にある霊園へ墓参する予定だった。このお墓は、父が存命中に、父が自分の両親のために用意したものだ。

    しかしながら諸事情あって、今は父の遺骨だけが眠っている。父が気に入った場所ではあるが、家族にとっては赴くに不便な場所。わたしも2年前に訪れたきりだ。最後の写真はそのときのもの。

    昨日は大雨の予報が出ていたが、曇天程度。鳥栖まで行くに問題はなかったが、車に乗り込んでなお、母もわたしも、鳥栖行きにはあまり気が進まず。最終的には母の一声で「桂川(けいせん)に行こう」ということになった。

    嘉穂郡桂川町。ここには母方の祖父母や兄弟の遺骨を納める納骨堂がある。まずはここで、手を合わせる。母も父もいずれは、この納骨堂に入ってもらうのがいいのではないか……とも思う。「墓じまい」が取り沙汰される昨今。数年前に、我が家も検討したが、今は保留中。課題の一つでもあり。

    その後、父が好きだったという「すし徳」にてランチ。店内は昭和な雰囲気に満ちているが、出された寿司は「インスタ映え」する盛り付けに変わっている模様。寿司ネタの一つ一つが巨大で、一口では食べられない大きさだ。

    父のお墓には詣らなかったものの、父も多分、わたしたちと一緒に過ごしていたと思う。

    その後、子供のころ訪れたきりだった飯塚の商店街に立ち寄る。まもなく閉鎖されるというシャッター街。栄枯盛衰を目の当たりにする。帰路、コーヒーでも飲もうとGoogle Mapにて探し見つけた雰囲気のいいブティック&カフェでしばし過ごした。

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    我が両親は、筑豊の出身。現在の嘉麻市界隈や嘉穂郡(桂川町のみ存在)、飯塚市などが、青春の舞台だ。

    母方の祖母が、わたしが小学生のころまで、この界隈に住んでいたこともあり、夏休みにはよく訪れていた。9人兄弟姉妹だった母の、うち何人かは、炭鉱が次々に閉山した時代にここを離れ、愛知県豊田市に引っ越した。

    わたしの古い記憶のひとつは夜の飯塚駅。多分2歳のころなので昭和42年、1967年ごろだ。商店の軒先に虫取り網と虫かごが置かれていたから夏だった。わたしは左手にチョコボールを持っている。

    伯父や伯母、従兄弟たちが、大荷物を携えて列車に乗り込む。やがて、蒸気機関車の汽笛が闇をつんざき、列車は煙を吹き上げながら、ガタン、ガタンと動き出す。普段は温厚で感情を露わにしなかった祖父が、涙を流しながら手を振り列車を追いかけ走る姿が、あまりにも衝撃的で、忘れ得ぬ記憶だ。

    日本の戦後の経済復興を支えた炭鉱。一時は多くの人口を抱え、街は豊かに景気よく、賑わいを見せていた筑豊地方。時は流れて歴史の一ページに刻まれるばかり。炭鉱の象徴だった黒いボタ山が、今では緑に覆われていて、あたかも「普通の山ですよ」という顔をしている。

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    母親の記憶の問題。わたしの記憶。このごろは、記憶の構造と魂の在りようについて、思いを馳せること多く。エジプト旅を経て、別次元に至る。ナイル川の西が、墳墓の点在する「黄泉の国=彼岸」とされたことや、石に刻まれたヒエログリフ、記憶と記録の証の意味など。

    古来から、人間が刻み、残してきたかったものは、結局のところ、なんのためだったか。

    今日の日付を忘れて困ることなど、あっただろうか。そもそも、日付などなかった。

    自分の誕生日を忘れるのは、よくないことだろうか。そもそも、覚えておく必要はなかった。

    忘却しながら死に向かう過程において、わたしたちが「本質的に」取捨選択しておくべきは、なんだったか。

    かつては、自分の故郷を忌避していた母。一方、わたしにとっては、自分が育った福岡市よりも「ふるさと」のように感じていた。しかし、ここ数年、母の故郷に対する見方が徐々に変容。今朝は「子どものころの佳き思い出」を慈しむように語っていた。

    自分のルーツ。生まれ育った場所。どんなことがあったにせよ、晩年にそこを受け入れ、懐かしみ、還ろうと願えることは、有り難いことだとも思う。

    わたしの終の住処は南天竺バンガロールだが、魂は軽やかに、地球のあちこちを、飛び回りたい。すっかりエジプトに心を奪われている今は、ナイル川の西をうろうろしたい。

    自分が訪れたことのある場所には、魂は自由に飛べるのだということを実感した旅だった。未知なる土地への旅情が沸き立つ。

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    COVID-19パンデミック以前は、年に1度の一時帰国だった。しかし去年からは「半年おき」に一時帰国をしている。インド移住以来、毎年5月ごろはニューヨーク、10月ごろは日本と決めていたが、パンデミックでさまざまなサイクルが変わった。日本への帰国頻度を増やしたのは、福岡に暮らす母の様子を見るのが主目的。

    85歳という年齢の割に、母はとても元気だが、それでも一人暮らしを続けるには少なからず問題がある。わたしなりに遠隔でもできることを続けてはいるが、実際に一緒に過ごしてみなければわからないことも多々ある。

    今回は福岡には長めの2週間弱、滞在する。出発前はわたしもエジプト旅行その他でバタバタとしていたので、予定をあまり入れず、のんびりと過ごすことにしている。そして最後の1週間は東京へ。

    本当は、出雲大社はじめ、日本国内で行きたいところもあるのだが、欲張っていては自分の体力が持たないので、今回は断念した。

    昨日は従兄弟夫婦が実家へ遊びにきてくれた。数年前に会ったばかり……と思っていたが、もう7、8年経っていた模様。彼が赤ちゃんのころから、美穂姉は面倒を見ていたが、今となっては「同世代?」的な雰囲気😸。昨日、部屋の掃除をしていたら、太宰府天満宮で従兄弟と撮影した写真が出てきた。どうなんだ、多分小学6年生のわたしのファッション。

    ちなみに母が着ている服は、わたしが自分のためにNICOBARで買ったものだが、母に似合ったのであげた。インドの良質ブランドの衣類は、木綿や絹などの天然素材を用いたものが多いので、着心地がいいのだ。これも綿85%、絹15%の混紡で、軽く肌触りもよい。

    夕方からは、中央区大名にあるヘアサロンへ。DJの相越久枝さんにお勧めいただき、今回初めて訪れた。ANT’Sというすてきなお店。オーナーの有吉さんが丁寧に対応してくださる。わたしはくせ毛ということもあり、ぱっと見、違いがあまりよくわからないかもしれないが、とにかく後ろが雑に伸びてて見苦しかったのを、きれいに整えてもらったのだ。扱いもとても楽になった。半年、持ちそうだ!

    美容院へ行く前に、近くにあったカフェに立ち寄った。Lamp Light Books Hotelという、ホテルに併設されたライブラリ・カフェ。旅情をそそる書籍が並ぶ、すてきな空間だった。

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    💇‍♀️ANT’S
    https://www.instagram.com/ants_hair/

    ☕️Lamp Light Books Hotel
    https://www.lamplightbookshotel.com/fukuoka/

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    Thank you for welcoming me 🙏🏻 😸

    Narita ✈︎ Fukuoka

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    バンガロール=成田の直行便は便利だけれど。福岡は遠く。乗り継ぎ時間は長く。

    突貫工事の感あるターミナル3で、讃岐うどん。トッピングの選び方が、ちょっとおかしい。

    ただいま日本。

    福岡行きのフライト遅延のアナウンス。長い旅路。

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