インド百景 2021-2025

天竺の、風に吹かれて幾星霜。ライター坂田マルハン美穂が、南インドのバンガロール(ベンガルール)から発信

MUSE INDIA / HOMEPAGE

✈︎ 過去ブログ/2005〜2025

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    上流から流れくる未来は、淀みなく、止めどなく、下流へ流れて過去となる。

    未来はたちまち現在となり、わずか1カ月前すら、慈しむまもなく忘却の旅。

    あんなにも心揺さぶられたはずのひとときですら、日常の渦からは遠く。

    ジョグジャカルタの、町外れの、バティック工房で買い求めた2枚の布。

    ボロブドゥール寺院と、プランバナン寺院を、額に収める。

    思い出を、封じ込める。

    🇮🇩ボロブドゥール寺院に別れを告げて、プランバナン寺院を目指すドライヴ

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    先週は、おめでたい週末であった。夫の誕生日の翌日、8月10日の夜、バンガロールを代表するミュージアム、MAPへと赴いた。創業者であるAbhishek の誕生日パーティが開かれたのだ。MAPは2020年12月から、インド初のデジタル美術館を稼働。パンデミックを経て2023年に、一般公開が開始された。このミュージアムの誕生により、バンガロールの魅力が増したと言っても過言ではない。

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    Abhishekは、インドで最も著名なアート蒐集家のひとり。美術品、写真、テキスタイルなど、彼の幅広いコレクションがMAPの中核を成している。芸術に関する見識豊かな彼は、バンガロール市民らが集う文化的な場所の構築を目指していた。WiproやBiocon、Infosys、TCSといった大企業のCSR(企業の社会貢献)、篤志家からの支援を背景に、フィランソロピーの理念に沿ったプロジェクトで、ミュージアムの具現化に至った。

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    同ミュージアムには、わたしもこれまで何度か訪れ、記録を残している。その中から以下、2つの記事をピックアップしているので、ぜひ目を通していただければと思う。

    なお、Abhishekの妻、Radhikaは、バンガロールを代表するファッション&インテリアのブティックCinnamonのオーナーだ。わたしは、バンガロール移住当初からしばしばCinnamonを訪れ、高品質なインド・デザイナーズのファッションやインテリア小物を購入してきた。世の中が沈み込んでいた2020年12月のパンデミック時代、「静かに」ミューズ・クリエイションのクリスマスバザールを開催した際に、Cinnamonの一室を無償で提供していただくなど、お世話にもなった。

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    今、その店舗は、MAPのミュージアムショップになっている。Cinnamonは、レストランを併設するとてもすてきなブティックにつき、MAPと並んで、ぜひ訪れてみてほしい。

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    パーティの会場では、親しい友人らとも顔を合わせ、賑やかなソーシャルタイム。そのあいまに、ミュージアムの展示をゆっくりと眺めるなど、贅沢な時間を過ごした。

    この夜は、久しぶりにMRINALINIのダブル・イカット(経緯絣/たてよこがすり)のシルク・サリーを着用。伝統的なテキスタイルながらモダンなデザインで、ミュージアムの雰囲気とも合っている。MRINALINIは、友人のYashoのブランドで、パンデミックの最中、販売の機会を失っていた伝統工芸の職人たちを支援すべく立ち上げられた。

    Yashoが選ぶサリーは、高度な技術を持つ職人たちの技とセンスが生きた作品(商品)ばかり。わたしはYashoの好みと似通っているので、ここ数年は、MRINALINIのサリーしか購入していない。買うつもりはなくても、彼女が新作を入荷するたびに、お宅へ伺い(我々の新居と同じコミュニティ)、「見るだけ」と思いつつ、買ってしまうのだ。

    さて、ミュージアムに到着後、一足先に会場に入った夫が、振り返りざま、目を輝かせていう。

    「ミホ! Yashoがミホと同じサリーを着ているよ!!」

    見ればYashoも、黒と銀の輝きが上品な、イカットのサリーを着ている。彼女のサリー姿は、いつ見ても、格別に美しい。

    ……というか、夫よ。確かに似てはいるけれど、「同じ」じゃないからね。

    それはさておき、彼女の小物遣いも、とても洗練されている。額のビンディーもカラー・コーディネートされている。シルヴァーのトライブ(民族/部族)のジュエリーは、ごつい印象になりそうだと思っていたが、彼女が身につけていると、とてもエレガントだ。こういう雰囲気もいいなと……と、わたしも試してみたくなった。

    近いうち、MRINALINIとMUSEのコラボレーションで、サリーの展示販売会を実施したいと考えている。多くの人(特に日本人)に、質のよいサリーを選んでもらえれば……との思いだ。参考までに、過去のYashoとの2ショット写真も載せておく。

    2022年に京友禅サリーのプロモーターとして展示会をしたときのものと、ジャイプールでのパーティのときのもの。このときわたしが着ているのも、MRINALINIのサリーで、やはり偶然、二人、似たようなデザインだった。

    着物もいいけど、サリーもいい。伝統衣装というのは、本当に、美しいものだとつくづく思う。

    🎨MAP/ Museum of Art & Photography バンガロールに芸術の拠点が誕生。(2022/12/10)

    🎨ACT MUZ企画でミュージアム見学。『ラーマーヤナ』を軸に学ぶ、時空を越えるインド世界の今昔

    🎄Memories of Muse Charity Tiny Bazaar 2020/ 小さなチャリティバザールの、小さな思い出@シナモン

    🌻バンガロール探訪 Explore Bangalore 001
    道中の光景ほか、英国統治時代の面影を残すBangalore Club, Taj West End, Cinnamon

    🥻『インドのテキスタイルとサリー講座』で「不易流行」。古来からの歴史、文化、伝統、政治、世相を映す、インドの布世界。(2023/09/30)

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    ハードロックカフェは、スピリチュアルが炸裂していた。

    一昨日の出来事を書こうと思うが、かなり難しい。誰もが受け入れやすい話題ではないし、スピリチュアルに対する偏向や偏見が発生しやすい日本に向けて発信するには、言葉選びにも配慮が必要だ。ともあれ、思慮深く読んでくれる人は必ずいると信じて綴る。

    一昨日の夜、バンガロール中心部にあるハードロックカフェにて、創業者のアイザック・ティグレットのトークに赴いた。わたしは、高校時代にヘヴィメタのバンドでシンセサイザーを担当していたこともあり、ハードロックなサウンドにも慣れ親しんできた。今でも、「大音響はうるさい……!」と思う気持ちと裏腹に、音を聞けば血が騒ぐ。ロックダウン時代には、BABYMETALの『メギツネ』をカヴァーしてYoutubeに上げたりもした。

    ニューヨーク在住時代の1998年にハードロックカフェを取材して以来、その店舗の雰囲気やTシャツが気に入り、2007年にバンガロール店がオープンしてからは、しばしばBengaluruヴァージョンのTシャツを購入してきた。

    そんな背景があることから、この夜も、先日、ターミナル2(新空港)のハードロックカフェで購入したTシャツを着用し、張り切って赴いたのだった。

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    なぜ、アイザック・ティグレットがバンガロールにいたのか。ほかでもない、彼は20代のころから今日に至るまで、サティヤ・サイ・ババ (1926-2011) のアシュラムに通い続けているからだ。海外からサイ・ババのアシュラムの拠点に赴くには、まずバンガロールに着陸する必要がある。

    サイ・ババとは、インドのスピリチュアルリーダー (Guru/指導者)であり、偉大なるフィランソロピストだ。宗教やイデオロギーの概念を超えて、国内外に無数の信奉者を持つ。人々を導き、無償の病院や学校を設立、肉体が滅びてなお、多くの人々を救済し続けている。

    サイ・ババをして、日本では、かつてメディアでおもしろおかしく取り上げられ、紛い物の新興宗教のような扱いを受けていたこともあった。甚だ、嘆かわしい。わたしの尊敬すべき友人や家族の中にも、国籍を問わず、サイ・ババの教えを胸に、世のため人のため、そして自分のために尽力されている人が多数いる。

    アイザックもまた、その一人であったということを、一昨日、初めて知って驚いた。

    ハードロックカフェは、1971年6月、当時23歳だったアイザックとピーター・モートンによって設立された。英国在住の米国人だった二人は、アメリカ南部のダイナーをイメージした店舗でハンバーガーを提供する店をロンドンにオープン。当時、欧州にはアメリカ料理店が少なかったことから、物珍しさも手伝って、人気を集めた。

    店内には著名ミュージシャンの使用した衣装やギターなどが飾られ、音楽がノンストップで流れる。やがてハードロックカフェは、世界各地に店舗を展開、多くの人々に知られるレストランに成長した。

    アイザックは、1991年にハードロックカフェを売却。そのときに得た$108 millionをサイ・ババの財団に寄付した。今の日本円だと150億円ほどであろうか。その寄付金により、設備の充実した無償の病院(500床)や、メディカルスクールなどが創設されるに至ったという。

    アイザックが、なぜサイ・ババに関わることになったのか。その理由を、この日の夜、彼の口から聞くことができた。それはあまりにも、起伏の激しい劇的なライフ・ストーリーだ。サイ・ババとの出会いなくして、アイザックの人生はなく、もちろん、ハードロックカフェもなかった。

    🎸

    アイザックは、実業家の親のもとに生まれ、恵まれた子ども時代を送っていた。しかし、十代のころ、二人の兄が、立て続けに他界。一人は自殺だった。二人の息子を失った両親の関係は冷め、母親はアイザックに愛を注ぐことをやめた。辛く悲劇的な時代が続いた。

    19歳のとき、彼の脳裏に、声が聞こえた。

    “I’m waiting for you.”

    一瞬、幻聴かと思った。自分の声? いや違う。誰かの声が聞こえてくる。しかし、誰の声なのかわからない。そんなことが、何度も起こった。

    当時、米国は長引くヴェトナム戦争 (1955-1975)の只中にあった。反戦を訴える若者によって「Love & Peace」のムーヴメントが起こった。

    音楽やアート、ファッションなどで新たな価値観を表現。カウンターカルチャーの発信源となった彼らは、「ヒッピー/フラワーチルドレン(フラワーチャイルド)」と称されるようになる。『武器ではなく、花を』が、スローガンだったからだ。

    この時代、多くのミュージシャンやアーティストがインドを目指した。この話になると非常に長くなるので割愛する。

    彼はハードロックカフェを開業した1971年に、「声の主」を探すべく、インドを7カ月間、バックパッカーで放浪した。各地の寺院やアシュラムを訪れたあと、ここバンガロールに隣接するアンドラ・プラデーシュ州に辿り着いた。宿でチェックインをしているときに、彼はかつてない大きな声で、呼ばれた。

    “I’M WAITING FOR YOU!!”

    驚いて、顔を上げると、壁にかけられている男性の写真が目に飛び込んできた。大きな髪の毛の男性。彼がサティヤ・サイ・ババというグルだということを知った彼は、アンドラ・プラデーシュ州のプッタパルティにあるアシュラムへ直行。遂にはサイ・ババと会うことになる。

    やっと来たか。待っていたよ。懐かしい友達。ここで待っていなさい。一緒にすることが山ほどある……と、声をかけられた。

    その後、15年間、彼はビジネスの合間を縫って、実に50回もプッタパルティのアシュラムに通い続け、奉仕活動などを続けてきた。その間、実際にサイ・ババから声をかけられることはなかった。しかし、アイザックの、サイ・ババへの信奉が揺らぐことはなかった。

    インドでの質素な暮らしとは裏腹に、米国ではパーティ三昧の派手な暮らしをしていたある夜、彼は酩酊状態でポルシェを運転し、大事故を起こす。車が崖下に落下する瞬間、誰かが彼の肩をグイッと掴むのを感じたという。車は跡形もなく大破したが、奇跡的にも、彼は無傷だったという。彼はサイ・ババによって救われたのだと確信した。

    アイザックの話は尽きず、2時間近くに及んだ。その間、彼は幾度となく、「あなた方は、インドという国にいることができて幸運です」と口にした。それは当然、インドの表面的な印象を指すものではない。魂の深淵、根源的な意味において、であろう。

    🎸

    Love All, Serve All. Help Ever, Hurt Never.

    ハードロックカフェのスローガンは、サイ・ババの教えに彩られている。写真のMission Statementの周囲にも、その言葉が配されている。右端の「Clapton is God」だけが、異質でお茶目だ。Claptonとは、英国人の著名ギタリスト、エリック・クラプトンに言及した 1960年代のひとつの表現だ。

    🍃

    ところで、日本で数年前から人気を集めているミュージシャン、藤井風。ロックダウン時代に彼の歌を何曲か聴いて以来、わたしもすっかり、引き込まれた。旋律もさることながら、歌詞が心に染みる。ゆえにその後、彼のご両親がサイ・ババを信奉していると知り、納得した。彼の歌が、人間の心を癒し光を導く力を持っている所以だ。

    先ほど調べて初めて知ったが、藤井風の1枚目のアルバムのタイトルはLove All, Serve All。2枚目がHelp Ever, Hurt Never。まるごとサイ・ババのことばであり、ハードロックカフェのスローガンと重なっている。

    「すべてを愛し、すべてに奉仕しよう」

    「常に助けよう。決して傷つけないで」

    美しい。

    美しいにもかかわらず、サイ・ババをなんたるかを知らず、日本のメディアの偏った報道を鵜呑みにした人たちが、藤井風を批判している事実を見たときには、困惑した。

    🎸

    姿在りしころのサイ・ババは、1年の大半をプッタパルティで過ごし、2カ月ほどを、バンガロール東部郊外のホワイトフィールドで過ごしていた。かつて、ホワイトフィールドにあるアーユルヴェーダグラム滞在中には、日本人を含む外国人のサイ・ババ信奉者と、しばしば顔を合わせていたものだ。

    🍃

    若いころには、気づかなかった。しかし、歳月を重ね、経験を積むにつれて、確信する。「縁(えん)」と呼ぶには優しすぎる。わたし自身がインドに至り、今に至るすべてが、強い「カルマ」によって導かれていた。そして、そのすべては「自分の中にあるもの/真我」が握っているということを。

    わたしは特定の宗教やグルを信奉しているわけではないが、「大いなる力」によって守られ導かれ、生きていることを感じている。さもなくば、今、わたしがバンガロールで、こうして幾多の出会いに恵まれながら、暮らし、働き、奉仕し、伝える原動力の説明がつかない。

    ここバンガロールは、サイ・ババのアシュラムの拠点であり、ヒッピー文化の契機となるISCKON寺院の拠点でもある。わたしもまた、ここに来るべくしてきたならば。ミューズ・クリエイション (NGO)を創設し、活動を続けていることも、カルマであり使命であるだろう。

    「LOVE & HOPE, NO BORDERS。国境を超えて、愛と希望」

    これはミューズ・クリエイションのスローガンだ。わたしだからこそできることを、揺るぎなく続けよう。改めて、そう思った夜だった。

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    🍔HARD ROCKなハンバーガーとともに、歳月の流れを噛み締める。(2021/08/11)

    🎸HARD ROCK CAFEに集い、ハードロックの封印を解く。(2008/08/17)

    🏏またしても、スタジアムへクリケット観戦に!(2011/10/09)

    🎤ハードロックに歌い踊る! クレイジーな土曜の夜。(2013/04/06)

    🙏「ハーレー・クリシュナ!」クリシュナ生誕祭の祝典@イスコン寺院/ISKCON TEMPLE (2018/9/03)

    🙏世界最大の給食センター「アクシャヤ・パトラ」と母体のイスコン寺院に関する記録のまとめ

    🎤MUSEMETAL/ MEGITSUNE メギツネ (BABYMETAL COVER)

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    昨日は、夫の52回目の誕生日だった。夜は別の用事が入っていたので、ランチを二人で過ごすことにした。バンガロールの外食産業は、過去十数年、久しく成長し続けていたが、パンデミック時代の停滞を経て、今、さらに急伸している。店の情報収集が追いつかない。

    一昨日、WhatsAppで、親しい女友達におすすめの場所を尋ねるも、目ぼしいお店は予約でいっぱい。どうしたものかと、Google Mapを眺めつつ思案していたところ、”Salvadores”という文字が目に飛び込んできた。高評価だ。店の雰囲気も悪くない。早速、予約を入れた。

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    場所は、バンガロール市街中心部のMGロード沿い。Bangalore Central Mallがあった場所だ。わたしたちが移住する前年の2004年にオープンした、バンガロールでは最も古いモールの一つであったが、数年前にクローズ。TATAに買収された現在、数カ月後の新規オープンに向けて工事中である。

    その工事中のモールの最上階に、”Salvadores”は位置している。ゲートをくぐり、どう考えても危なっかしい工事現場を通過して、地下の駐車場へ。ここから直通のエレベータで最上階のレストランへと向かう。夫だけでなく、予約したわたし自身にとっても、なかなかにサプライズな状況だ。

    エレベータを降りて、レストランのドアを開けた瞬間、ふわっと異次元に舞い込んだような感覚に襲われた。同時に、懐かしさが込み上げてきた。わたしたち以外、ゲストは誰もいない、しかし広々とした雰囲気のいいダイニング。窓からは、バンガロールの緑が見渡され、目の前には、かつてバンガロール唯一だった高層ビルディングが見える。

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    初老の男性給仕が恭しくサーヴィスしてくれる様子も、懐かしさをかき立てる。そう。今ではすっかり、若い男女が飲食店で働くことが一般的になっているが、かつては中年から初老にかけての男性給仕が、ゲストをもてなすのが普通だった。わたしがムンバイで最も好きだった場所、The Taj Mahal Palace Hotelの旧館のSea Loungeも、そうだった。

    聞けばこの店は、2017年に開業したばかりとのこと。その割に、この懐かしき風情の理由はなんなのだろう……と尋ねたところ、この店は、Bangalore Central Mallがオープンする前に、この地にあったヴィクトリア・ホテルの意匠を引き継いでいるのだという。

    帰宅後、調べてみると、興味深い記事に目が止まった。英国統治時代から、バンガロールの人々に愛されてきたというヴィクトリア・ホテル。ヴィクトリア家の人々によって、代々、所有されてきたという。緑豊かな庭園に囲まれたこのホテルのダイニングで楽しめる、イングリッシュ・ブレックファストが人気だったようだ。

    思えば、バンガロールの古い街並みを描く画家、ポール・フェルナンデスの絵を通して、わたしはヴィクトリア・ホテルを見たことがあった。

    “Salvadores”の開業に際しては、二代目ジョセフ・サルヴァドール・ヴィクトリアの息子、三代目レックス・ヴィクトリアが携わったという。スリランカにおけるワイン貿易の第一人者であり、ホスピタリティ・ビジネスへの献身で知られた父、サルヴァドール・ヴィクトリアに捧げるべく、Salvadoresという店名だ。レストランの入り口には、彼の肖像画が掲げられている。

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    メニューには、オーセンティックな欧州料理が並ぶ。ワインメニューも充実しているが、わたしは抜歯直後で飲酒できないし、夫もその後の予定があるので、昨日はフレッシュライムソーダとスイカジュースで乾杯した。注文したシーザーサラダ、スープ、魚のグリル、シーフードのパエーリャ……。いずれも、とてもおいしい。ビーフやチキン、ポークなど、肉類のメニューも豊かだ。しかもリーズナブル。しかも眺めがよい。

    ほかにゲストの来訪はなく、我々の貸切状態。現在工事中のモールが完成すれば、きっと来客も増えることだろう。トレンドを取り入れた新しい店もいいけれど、最近のわたしは、このノスタルジアが心身に染みる。

    過去20年、わたしが知る限りにおいても、バンガロールの街並みは著しく変貌してきた。英国統治時代の風情を残す、バンガロー(平屋一戸建て建築)はことごとく破壊され、近代的な建築物に姿を変えている。もしヴィクトリア・ホテルの建物が取り壊されていなかったら……と、夢想する。

    ゆっくりと、時間を慈しみながら食事をしたいときには、またここを訪れようと思う。

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    最後の写真。夫が夕方、サットサン (Satsang) へ持っていくというので、スポンジケーキを焼いた。インドでは、誕生日を迎える本人が、友人たちにケーキを振る舞うのが一般的だ。無事に誕生日を迎えられたことに対する感謝の気持ちを、周囲に伝えるという意味合いもあると思う。みなに喜ばれたとのこと。よかった。

    🎨昔日のバンガロール、ゴア、ムンバイの情景を慈しみ描く。ポール・フェルナンデス(2017/11/28)
    https://museindia.typepad.jp/2017/2017/11/paul.html

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    先日、ベルギーのトライアスロン選手が、セーヌ川の水質汚染対策として「プロバイオティクスを摂取し、ヤクルトを飲んだ」という記事を読んだ。さすがヤクルト! と思った直後、わたしもヤクルトを買わねば! と思った。数日後に控えた「抜歯の対策」である。なぜ抜歯とヤクルトに、関係があるのか。

    普段は極力、薬を飲まないわたしだが、抜歯の際は、やむなく抗生剤や鎮痛剤を服用する。抗生剤を飲むと、悪い菌だけでなく、腸内のよい細菌もダメージを受ける。そのせいで、下痢をしたり、お腹にガスが溜まったりする。それを緩和してくれるのが、「ラクチカゼイバチルス・カゼイ・シロタ株」なのだ!

    以下、ヤクルトのサイトより引用。

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    シロタ株は1930年、後にヤクルトの創始者となる医学博士、代田稔(1899-1982)によって発見、強化培養された乳酸菌の一種です。代田は、「病気にかかってから治すのではなく、かからないための予防が大切」という日本における予防医学のパイオニアともいえる考えのもと、乳酸菌の研究を重ねました。
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    予防の医学……といえばインド5,000年の伝統医学アーユルヴェーダの理念にも通ずる。

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    さて、普段は常備していない(ごめん)ヤクルトを購入した奇しくもその日、デリー駐在中のヤクルト王子、改め、インドヤクルト・ダノン株式会社社長の天野英治氏からバンガロールへ出張する旨、メッセージが届いた。振り返れば、天野夫妻とマルハン夫妻との付き合いは、長い。だいぶ長い。我が夫も会いたいというので、昨日のランチタイムに、拙宅へ招いたのだった。

    ヤクルトがインドに進出したのは2007年ごろ。当時、まだ東京勤務だったヤクルト王子および会社の方々は、わたしがヤクルトのインド進出に言及したブログ記事をご覧になっていて、わたしの存在は知っていたらしい。その後、夫妻はデリーに駐在され、数年後、バンガロールに異動された。

    さらに、東京、ドバイを経て、昨年再びデリーへ戻られたという経緯。ちょうど1年前に、我々夫婦がデリー宅に行った際、天野夫妻を招いて久々の晩餐会をした。そのときの記録に、天野夫妻との思い出をピックアップしている。妻の貴子さんは、ローカルフード探検隊の熱き隊員であり(エピソード多すぎ)、ミューズ・クリエイションの初代メンバーとしても貢献してくださった。

    せっかくなので、下のリンク先もお読みいただければと思う。

    ヤクルト王子は、先月下旬に発売開始されたばかりの「マンゴー味のヤクルト」をお土産にご来訪。我が家で買っておいたヤクルト含め、記念撮影である。商品のコンセプトその他については、添付のリンク先をご覧いただければと思う。

    デリーへ戻るフライトの時間まで、わずか1時間半。わたしたちに会うために立ち寄ってくださったことをうれしく思う。出前を取ろうかとも思ったが、せっかくなので素朴な家庭料理でおもてなし。バンガロールは肌寒いので、先日に引き続き、またしても「鍋料理」だ。おいしく愉しき、ひとときだった。

    ちなみに今回の抜歯。根幹治療をしていた歯が炎症を起こし、インプラント治療をするしかなく、抜歯に至った。すでに我が口内、インプラント多数。昭和の治療でダメージを受けていた我が歯。しっかり歯磨きをしていても、ダメなものはダメなところが辛い。

    単なる抜歯ではなく、切開やら骨組織の移植やらで、そこそこな手術であった。痛みはほとんどないが、右頬が腫れている。今朝はさらに腫れている。ヤクルト飲んで、早期回復を目指したい。

    ちなみに、ミューズ・クリエイションが慈善団体訪問をする際、しばしばヤクルトを購入し、子どもたちと一緒に飲んでいる。わたしたちも、もう少し頻度高く飲んでみようと思う。

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    📷懐かしの写真もアップロード。ヤクルトは、インド進出当初より、高級ホテルの朝食ブッフェにて提供され、認知度を高められていた。ゆえに、普段、家で飲まなくても、旅先や出張先のホテルにて飲むことがよくあった。2023年の夫の写真は、ケララ州コチのホテルにて。たまたまヤクルトのTシャツを着ていた夫。もはや広告塔である。

    2013年の写真は、我が家でおせち料理を作り、お正月を過ごした時の一枚。二人で、さだまさしの歌を熱唱しているの図。

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    🥭ヤクルト、印で同社初マンゴー味商品を発売(NNA ASIA 2024年7月25日)

    🇮🇳ヤクルトで乾杯! 一瞬にして巻き戻る時間。9年ぶりに4人で食事! 

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    昨年9月、ミューズ・クリエイションを再編し、新たな活動を開始して1年が経とうとしている。この間、若者メンバーが意欲的に活動への関心を示してくれたことで、大小いくつもの企画を実現できた。しかしながら、彼らのバンガロール滞在期間は短く、出会って数カ月、あるいは数週間でお別れだ。

    そしてまた、近々数名の若者がバンガロールを去る。わたしが実施しているセミナーや研修会に関心をお持ちながらも、タイミングが合わずに参加できなかった方も少なくない。今回、「簡単な概要をご説明いただく機会を作っていただくことは可能でしょうか?」との連絡を受け、「最後の授業」を実施することにした。

    本来ならば、きちんと体制を整え、然るべき時間を確保して行いたい。しかし、これまでの経験上、参加希望者の予定を合わせるだけでも至難の業につき、ここはフレキシブルに対応しようと考えた。

    わたしは昨年より、インド人に向けてのセミナーやトークを本格的に始動している。複数テーマの資料がある中、「日本とインドの関係史」は、両国の関わりを知る上で、非常に参考になる内容だ。特に8月。第二次世界大戦の終結や、インドとパキスタンの分離独立が果たされたこの時期、日本とインドの関わりの深さがいかなるものだったかを学ぶことは有意義である。

    わたしの「インド・ライフスタイルセミナー」のYoutube動画は、日本語の資料を使いつつ、日本語で説明をしている。しかし、若者らには、将来、彼らが他のインドの人たちに「英語で」説明してほしく、インド人向けに作成した英語の資料で「授業」を行った。プレゼンテーションの資料としては文字量が多いが、あとから復習してもらえるよう、意識的に文字を多くしている。

    巨大なスクリーンは新居に置いているので、プロジェクタだけを持ってきて、壁に投影した。小人数につき、ノープロブレムだ。

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    授業は90本ほどで終了。その後は、毎度のごとく、飲んで食べて、昔から人気のおやつ、ロールケーキも食べて、お開きとなった。

    毎週金曜日をオープンハウスにしていたころ、毎週のように、お菓子を焼いていた。カステラやロールケーキ、フルーツ・カスタードクリームタルト、アップルタルト、プリン、ショートブレッド、パンナコッタ、タルトタタン……と、20人分、30人分と、よく作っていたものだ。今振り返るに、尋常ならない8年間だった。あの熱意は、一体何だったのだろう。自分でもよくわからない。

    今回、久しぶりに旧居でロールケーキを焼く準備をしていたら、計量器が壊れていることに気づいた。使う材料は、MAIDAと呼ばれる精製小麦粉、砂糖、コーンスターチ(コーンパウダー)、そして卵。トッピングの生クリームや果物、卵は軽量不要だが、その他は必要。

    計量カップを駆使ししつつ、「雰囲気で」測って作った。なんとかなった。よかった。

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    ところで、去りゆく男子が持参してくれたTALISVAのワイン。ラベルが非常にかわいらしい。初めて見る銘柄につき、産地を確認したところ、ここカルナータカ州のシモガ (Shimoga)だという。フルーツワインを生産していて、これはオレンジピールの爽やかな風味が加わった甘味あるワインだった。次々に新しいものが誕生するインドの日常。別のフレイヴァーも試してみたいものだ。

    🍷TALISVA
    https://talisva.com/

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    朝食のあと、毎朝、コーヒーを飲む。 お気に入りのコーヒーは、Monsoon Malabar。

    そのときには、なにかしらの、「おやつ」も食べる。

    今朝は、昨日焼いたロールケーキの残りを食べる。

    生クリームの水分を引き受けて、少し、しっとりとしたスポンジ。

    これがまた、いい。

    食いしん坊のROCKY兄さんからの熱視線を感じつつ。

    至福のひととき。

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    🇯🇵今年も8月がきた。日本を離れて28年間。わたしは一度も8月の日本に帰国していない。故国の盛夏の記憶は彼方になれど、毎年毎年、同じようなことを、綴り続ける。大切だと思うことは、何度でも、同じことを訴え続ける。

    異国に暮らし、異国を旅するにつけ、なるたけ偏りの少ない視点から、歴史を学ぶことの大切さを実感する。学生時代、日本史にも世界史にも大して関心を持たなかったわたしが、しかし社会人になり、海外旅行のガイドブックを制作する編集者になってからというもの、紹介する国の背景について、学ばざるを得ない状況になった。

    初めての海外取材は台湾だった。そして、シンガポール、マレーシア……。どの国にも大東亜共栄圏の面影が残り、第二次世界大戦が身近にあった。

    あの初めての海外取材から36年。訪れた国は、多分40カ国を超えているが、どこを訪れるにしても、その国の歴史や文化、イデオロギーなどの背景を知ることが大切だと実感する。背景を知らずして、現在を知ることはできない。

    軽やかな観光の楽しみ方を否定するわけではない。しかし、食文化にせよ、芸術にせよ、ライフスタイルにせよ、背景を知ると、よりその国を深く理解することができ、同じ対象を見るのでも、感じ方が大いに異なる。

    さらに言えば、その国に暮らすことになったら、あるいはビジネスをすることになったら、表層的な理解だけではすまされない。

    インド生活が19年目となった今なお、この広大無辺の国インドをはじめ、国々の歴史に学ぶことの多い日々。

    ここ数年のセミナーでは、特に若い世代の人たちに向けて、せめて明治維新以降156年の日本の歴史、概観を、学んでおく方がいいと伝えている。無論、わたし自身、まだまだ勉強不足で、これから学ばねばならないことも多々あるのだが……。

    ……ここでは、8月6日という日に因んでの、過去の記録を以下、転載する。今からちょうど20年前に米国のスミソニアン航空博物館を訪れたときのこと、そしてちょうど10年前に、改めて思うこと綴った記録だ。

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    🙏8月6日。広島に原爆が落とされた日。 まずは2014年の記録を転載。 

    ワシントンD.C.に住んでいたころのこと。2004年2月、完成してまもないスミソニアン航空博物館(スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター)を訪れた。スミソニアンの博物館群は、ワシントンD.C.市内にあるが、2003年12月、この別館が、ワシントン・ダレス国際空港の近くに新設されたのだ。特に航空機に関心があるわけでもないわたしが、オープンしたばかりのそこに足を運んだのには、理由があった。

    エノラ・ゲイを、見たかったのだ。

    レプリカではない。広島に原子爆弾「リトルボーイ」を運び、投下したB-29、エノラ・ゲイの「実物」だ。

    あの日、目にした光景は、受けた衝撃は、未だに鮮明だ。以来、毎年この日になると、あのとき記した言葉を、そのままブログに転載してきた。今年もまた転載する。ただし、今年は今までとは違って、少し書き加えておきたいことがある。

    実は先日、百田尚樹の『永遠のゼロ』を読んだ。戦地からひたすら「生きて帰ること」を望み続けていた、一人の優秀な兵士(戦闘機搭乗員)の話である。死なないために、特訓を重ね、神業のような操縦技術を身につけていた彼が、なぜ終戦間際に特攻隊員として死したのか。その一人の男の生き様を、生き延びた戦友らの証言からたどっていく物語だ。

    第二次世界大戦にまつわる史実などの描写については、すでに知っている事柄も多々あったが、初めて知って驚くことも多かった。たとえば、神風特攻隊が乗り込んだ戦闘機が「桜花」という名前であったこと、そしてその自爆のための飛行機が、連合国側から、日本語の「バカ」にちなんで、BAKA BOMB(馬鹿爆弾)というコードネームで呼ばれていたことなど。馬鹿爆弾……。思うところ多く、ともあれ、下記に転載する。

    なお、太字による文章は、2014年に加筆した部分だ。

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    ●エノラ・ゲイ (FEBRUARY 27, 2004) 

    思いがけぬほど、その飛行機は大きく、そして美しかった。
    そうして、醜くも、忌々しくもなかった。
    そのことが、何よりも、衝撃だった。

    澄み渡った青空のただ中を、太陽の光をキラキラと反射させながら、
    この銀色の飛行機は、飛んだだろう。
    そうして、胴体をぽっかりと開いて、新しい爆弾を落とし、
    そうして、夥しい数の人々を、燃やしただろう。

    あの朝の、空の下の風景を、ここでは知る術もなく、
    多分知ろうとする人もなく。

    ただ、この飛行機は、半世紀を経て、ナチスの戦闘機や、
    日本の戦闘機を睥睨するように。

    愛らしいほどの、神風特攻隊の、小さな戦闘機などを。

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    ●エノラ・ゲイを見た。(2004年3月発行のメールマガジンより転載)

    夫のオフィスはヴァージニア州のレストンという街にある。DC郊外の、新興ビジネスタウンだ。新しいオフィスビルやアパートメントビルが次々に立ち、ここ数年のうちにも、レストランやショップなどが軒並みオープンしていた。

    さて、先週の金曜日、夫が通勤する車に乗って、わたしもレストンへ行った。夫をオフィスでおろしたあと、そのまま車でショッピングモールなどに出かけ、買い物をしようと思ったのだ。買い物の合間、思い立って、スミソニアンの航空宇宙博物館に立ち寄ることにした。

    そもそもスミソニアンのミュージアム群は、ワシントンDCの町中、連邦議会議事堂やワシントン記念塔などの観光名所がある「モール」と呼ばれるエリアにあり、航空宇宙博物館もそこにある。

    ただ、展示品が大きいだけに、多分、モールの館内ではおさまらなくなったのだろう、去年の末、ヴァージニア州にあるダレス国際空港のそばに、巨大な「別館」が完成したのだ。

    この航空宇宙博物館については、ご存じの方も多いだろう。ここには復元された「エノラ・ゲイ」が展示されているのだ。日本のメディアでもたびたび取り上げられていたのを目にした。広島県被爆者団体協議会の人たちが渡米し、地元の平和活動家らと共に抗議運動をしたとの記事も、インターネットで見た。

    わたしは、もちろん戦後生まれだが、戦争教育はしっかりと受けてきた世代だ。夏休みの登校日には、必ず戦争に関する話を聞かされたり映画を見せられたりした。家族に戦争体験を聞くという夏休みの宿題もあった。

    福岡大空襲を経験した担任教師の話も、臨場感があって、とても怖ろしかった。他の授業のことは忘れていても、先生が、防空頭巾を被って焼夷弾の雨をくぐり抜け、溝の中に命からがら避難したという話は覚えている。

    「原爆の歌」(ふるさとの町焼かれ、身よりの骨埋めし焼け土に……)とか、「夾竹桃の歌」(夏に咲く花、夾竹桃…… 空に太陽が輝く限り、告げよう世界に原爆反対を)とかいう歌は、今でもしっかりと覚えているくらい、繰り返し歌わされた。

    あまりに戦争の話が怖ろしくて、子供のころは夏の入道雲や青空を見るたびに、自分が戦争を体験したわけでもないのに、底なしの恐ろしさや虚無感に襲われることがあった。

    体験したことのない戦争だけれど、自分の国(日本)の痛ましい歴史の断片は、確かに刻み込まれているような気がしていた。

    ハイウェイをはずれ、わざわざそのミュージアムへアクセスするために施工されたらしき、真新しい道路を走った先に、そのミュージアムはあった。駐車場代だけで、一台につき、12ドルも払わされた。まずはそのことに驚いた。

    アメリカの、こんなに土地の有り余った場所で、駐車場代を12ドルも払うとは。無論、スミソニアンのミュージアムそのものは無料だから、多分道路の工事費とかそういうものの赤字を埋めるための、それは駐車場代だろうとも思った。

    広大な駐車場の向こうに、巨大なメタリックの建物が、青空に映えて美しい。上空ではダレス空港に飛来する飛行機が行き来している。わたしは、少し身構えるような心持ちで、車を降り、エントランスへ向かった。

    エノラ・ゲイ。

    わたしの想像の中で、その飛行機は、忌々しく、醜いはずのものだった。罪なき十数万人の命を一瞬にして奪った、残酷な飛行機。それをこれから見るのだと思うと、胸の鼓動が高まった。案内のパンフレットを受け取り、その広大な展示場に出る。

    第二次世界大戦のコーナーは、入館してすぐの場所を占めていた。そこで、ひときわ大きく、格好のいい銀色の飛行機が目に飛び込んだ。尾翼に大きく「R」の文字があり、胴体に「82」という数字と星印がある。

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    その大きな飛行機の周辺に、主翼に日の丸のある日本の戦闘機が数機と、それからナチスのマークが入ったドイツの戦闘機などが展示されているのが見える。

    「1941年、日本軍による真珠湾攻撃を機に、米国は第二次世界大戦に参戦した……。」そういう文章で始まる案内を一通り読んだあと、まずは日本の戦闘機を眺める。

    ※スミソニアンのサイトを調べていて、この戦闘機が、『紫電改』という名であったことを知った。この名前は『永遠のゼロ』を読んで初めて、戦闘機の名前だったということを知った。零戦と並ぶ有名な戦闘機だったらしい。

    カネボウ化粧品が「紫電改」という名の育毛剤を発売したとき「変わった名前だな」と思ったが、まさか戦闘機の名をさしているとは、思わなかった。個人的に、受け入れ難い、センスだ。

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    翼が極端に小さく、飛行機と言うよりは、まるでミサイルみたいに小さな「クギショー」と言う名の戦闘機があった。

    それは特攻隊の乗っていたものだという。説明書きには、「終戦までに5000人のパイロットが特攻(Tokko Attack) によって戦死した」と記されている。

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    ※これもまた、『永遠のゼロ』を読んでわかったのだが、この戦闘機の名前は、クギショーではなく「桜花(Ohka)」であった。なお、Kugishoとは、海軍航空技術廠の略、「空技廠」のことらしい。

    「機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される」「いわゆる人間爆弾である」と、wikipediaには紹介されている。

    さて、エノラ・ゲイはいったいどの飛行機なのだろうと、コーナーをぐるりと回り込んで、息をのんだ。

    最初に目に飛び込んできた、あの銀色の飛行機の操縦席近くに、「ENOLA GAY」という文字が記されているではないか。

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    これが、エノラ・ゲイ?

    わたしは、非常に混乱した。

    なぜなら、エノラ・ゲイは、醜くも忌々しくもなく、むしろそれは、美しく、格好のいい飛行機だったからだ。しかもそれは、想像していたよりもはるかに大きい。

    それは、このミュージアムの大きな目玉、といってもいいほどの存在感だった。勝手に小さな戦闘機を想像していたわたしは、ともかくその大きさにも驚いた。

    エノラ・ゲイのそばには、他の航空機にあるのと同様、その機体名と概要、スペックなどが記された説明書きがあった。

    Boeing B-29 Superfortress Enola Gay

    このB-29というタイプの飛行機が、太平洋戦争でいかに活躍した優秀な航空機であったかが記されている。

    そして、1945年の8月6日、この飛行機が最初の核兵器を日本の広島に投下したこと、その三日後に、同じ機種のBockscarと名付けられた戦闘機が、日本の長崎に二つ目の核兵器を投下したこと、そしてそのBockscarは、オハイオ州デイトン近くの航空宇宙博物館に展示されていること、などが記されていた。

    原子爆弾によって広島の一般市民が何人死んだかは、記されていなかった。

    わたしはエノラ・ゲイの間近に迫り、下から見上げた。全身をジェラルミンで覆われた、軽量で丈夫な飛行機。わたしは、その胴体のあたりを見つめた。あそこの扉が開いて、原爆が投下されたところを想像してみた。

    しかし、ずいぶん昔、白黒写真で見たことがあったはずのB-29と、目の前にある飛行機とが、どうしても結びつかなかった。

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    呆然とした気持ちのまま、今度は階上にあがり、至近距離で操縦席を見た。中の様子が、見えすぎるほどにくっきりと見えた。説明書きによれば、広島に飛んだとき、12人の兵隊が乗っていたという。その様子を想像してみたが、うまくいかなかった。

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    わたしは、エノラ・ゲイを見た瞬間、自分は憎しみや悲しみに襲われるかもしれないと思っていた。でもわたしは、その機体を見て、それを美しいと感じた自分に、驚き、困惑した。

    わたしの周りでは、年輩の男性たちが、熱心にエノラ・ゲイを見ていた。ベテラン(退役軍人)たちだろうか。

    エノラ・ゲイを見たら、もう、あとはどうでもよくなった。エール・フランスのコンコルドとか、フェデックスの古い貨物輸送機とか、パンナム航空の飛行機などが展示された商業用航空機のコーナーを横目で見ながら、出口へ向かった。

    ギフトショップには、エノラ・ゲイのプラモデルや模型さえもが、売られていた。

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    わたしは、日本の被爆者団体の人たちの訴えも、平和運動家の訴えも、至極もっともだと思っていたし、共感もしていた。

    あの夏の朝、このエノラ・ゲイは、広島の青空を、太陽の光をきらきらと反射させながら飛んでいただろう。それが新型原子爆弾というものを落としさえしなければ、それは、きらきらと、優美に飛来する一機の飛行機に過ぎなかった。

    あの日、この飛行機が落としていったおぞましいものの引き起こした惨事を体験している人にとっては、どうしたって、これは忌々しい物体に違いない。けれどわたしは、この飛行機を見ても、憎悪の念が浮かび上がりさえしなかった。

    飛行機には罪がない。

    当たり前のことだけれど、飛行機には何の罪もないのだ。それは「罪の象徴」かも知れないけれど、でもやはり、罪そのものではない。そのことが、実際に、こうして自分の目で見て初めてわかった。罪は人間が創り上げるものであって、人間の中にある。

    核兵器がどんなにおそろしいものか、戦争がどんなに悲しいものか、その避けがたい諍いを、いったいどうすれば避けられるのか、それはいつの時代も、誰かが必ず、問い続けなければならない問題だと思う。さもなくば、世界は、戦争に満たされてしまう。

    しかし、この航空宇宙博物館に、原爆被害の展示をするというのはまた、微妙なずれを感じた。航空宇宙の技術や進歩を展示するこの場所において、戦争の被害を展示すると言うことに。

    わたしは何か、間違ったことを書いているかも知れないが、これが本音だし、正直な感情だ。

    しかし、さておき、エノラ・ゲイは展示されて然るべきであると思う。けれど、エノラ・ゲイがさも、「第二次世界大戦にピリオドを打った英雄」として在るのは、やはり許し難い。

    日本は、世界で唯一、原爆の被害を受けた国であると同時に、敗戦国であり、敗戦した国の言い分が、戦勝国において全面的に受け入れられ、正統化されることは、ほとんどあり得ないことのように思われる。

    では、いったいどうすれば、核兵器の恐ろしさを、客観的に人々へ伝えることができるのだろう。

    この際、日本が「軍事兵器博物館」でも作ればいいのだ。もちろん、現物を展示することはできないだろうから、模型などを展示して、軍事兵器の技術や進歩を見せると同時に、それらの兵器によって、どれほどの人々が、どういう殺され方をしてきたか、を伝えるような博物館。

    今、イラクで行われている戦争で使われている兵器や、それらがイラクの人々に与え続けている影響についても、一目でわかるような。

    しかし、今、書いているだけで、そら怖ろしい博物館になりそうだと思う。子供が見たら、トラウマになるかもしれない。そうならないように、恐ろしさを伝える方法は、ないだろうか。

    ともかく、エノラ・ゲイを見て、わたしは困惑している、ということを、考えのまとまらないまま、しかし今の心境を、ここに書き記しておく。

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    スミソニアン航空博物館 Smithonian National Air and Space Museum
    ➡︎https://airandspace.si.edu/

    エノラ・ゲイ Boeing B-29 Superfortress “Enola Gay” 内部、外観合わせて53枚もの写真が掲載されている。
    ➡︎https://airandspace.si.edu/collection-objects/boeing-b-29-superfortress-enola-gay/nasm_A19500100000

    Kugisho MXY7 Ohka (Cherry Blossom) 22 特攻隊が乗ったクギショー。着陸することがないから車輪がない。
    ➡︎https://airandspace.si.edu/collection-objects/kugisho-mxy7-ohka-cherry-blossom-22/nasm_A19480180000

    Kawanishi N1K2-Ja Shiden (Violet Lightning) Kai (Modified) 紫電改。零戦と並ぶ戦闘機。
    ➡︎https://airandspace.si.edu/collection-objects/kawanishi-n1k2-ja-shiden-violet-lightning-kai-modified-george/nasm_A19830237000

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    戦争反対を叫ぶなら、戦争がどのような状況だったのか、ということを知ることも、大切だと思う。戦争が美化されている云々の意見はさておき、靖国神社の遊就館は、訪れるべき場所のひとつだと、わたしは思っている。

    ステロタイプの意見に惑わされず、まずは自分の目で確かめて、感じて、自分の考え方を、自分なりに、生み出すべきだ。他人の意見に便乗するのではなく。

    情報が手軽に入手できる現代だからこそ、自分の感性、感覚を研ぎすまし、身体を動かして、肌身で経験することを、厭うべきではないだろう。

    【2013年11月/靖国神社を訪れたときの記録

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    ⬆︎クリックして拡大すると、文章が読めます。

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    靖国神社には、東京で暮らしていたころに、一度、ふらりと訪れたことがあった。そのときのわたしは、今に比べ、思うところ浅く、祈るところ浅く。

    日本を離れ、年を重ね、客観的に母国を見るにつれ、そして歴史の断片を学ぶにつれ、他国に干渉される不条理と不愉快。

    今日、きちんと手を合わせ、参拝できて、本当によかった。

    参拝後、立ち寄った遊就館の、その展示の充実ぶりに、驚かされた。ここでは詳細に触れぬが、ともあれ、日本人であれば、見ておくべき、知っておくべきものが、たくさん詰まっていた。1時間程度ではとても消化できない展示の数々である。

    いつかまた改めて、ゆっくりと時間をかけて、学ぶために、知るために、訪れたいと思った。

    なお、東京裁判(極東国際軍事裁判)において、被告人全員の無罪を主張したインド人のパール判事の顕彰碑は、2005年、ここに建立されたという。

    石碑の文字を目で追いつつ、彼の情念が、胸に迫る。

    歴史をもっと、きちんと、学ばなければと、今更のように思う。ともあれ、遊就館で購入した図録を、まずはじっくり読もう。

    🇯🇵靖国神社➡︎ https://www.yasukuni.or.jp/

    🇯🇵遊就館➡︎https://www.yasukuni.or.jp/yusyukan/

    🇮🇳ラダ・ビノード・パール ➡︎https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB

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    〜インド帰国後の追記〜

    遊就館の展示に関しては、ときを改めてじっくりと、一日かけて巡りたいと痛感した。折しも行われていた大東亜戦争七十年展がまた印象深く、ゆっくりと時間を取れなかったことが悔やまれるほどだった。

    米国のスミソニアン航空博物館で、日本の零戦やエノラゲイを見たときの話は、過去にも記した。ゆえに、零戦の展示については、さほどの衝撃を受けはしなかったが、人間魚雷と呼ばれた「回天」を目の当たりにしたときには、あまりのむごさに、泣けた。

    海底深く、こんなものに押し込められて、自爆を強いられた若者ら。どれほどに辛かったことであろう。

    無数の展示の中にあっては、ほんの一隅ではあったが、インドを舞台に展開された「インパール作戦」に関する事項も見られた。いつか必ず、コヒマにある日本兵の慰霊碑を訪れたいと思いつつ、幾星霜。

    ●パラレルワールドが共在するインドを紐解く/セミナー動画

    ①多様性の坩堝インド/多宗教と複雑なコミュニティ/IT産業を中心とした経済成長の背景/現在に息づくガンディの理念

    ②「広く浅く」インドの歴史(インド・パキスタン分離独立)/インドの二大政党と特筆すべき人物/テロが起こる理由とその背景

    ③明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈前編〉人物から辿る日印航路と綿貿易/からゆきさん/ムンバイ日本人墓地/日本山妙法寺

    ④明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈後編〉第二次世界大戦での日印協調/東京裁判とパール判事/インドから贈られた象/夏目漱石

    ⑤インド国憲法の草案者、アンベードカルとインド仏教、そして日本人僧侶、佐々井秀嶺上人

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    8月の第1日曜日は、インドほかいくつかの国において、「フレンドシップ・デー」らしい。友人からのメッセージで、先ほど知った。信頼できる友人や知人たちに恵まれていることを、とてもありがたく思う。

    一昨日の金曜日は、月に一度のフォーラム・ミーティングだった。いつものメンバーが集まって、メソッドに従ったミーティングを行う。その合間のティータイムやランチタイムは、不可欠なひととき。毎回、お菓子やスナックが持ち寄られ、ランチ前だというのに、みんな相変わらずよく食べる。わたしも食べる。楽しい。

    ところで、わたしが着ているのは、先日バリで購入したバティックのトップとストール。柔らかなコットンにインディゴで染められたもので、本当に着心地がいい。旅記録の[INDONESIA 19]で紹介している「IKATBATIK」という店で買った。あの日は、聖水で浄化された直後でもあり、「買い物欲」がほとんどなかった。しかし、こんなに着心地がいいのならば、もう少し買って来ればよかったとさえ思う。

    [INDONESIA 19] 百年が短い。高原の涼風が吹き抜けるバンガロールで、旅の余韻を綴る

    🌿
    子どものころから、心がざわめく8月。1945年8月6日の広島原爆投下、9日の長崎原爆投下、そして15日の終戦記念日……と、戦争の匂いが強いことが、その理由の一つだと思う。夏休み最後の日、8月31日の自分の誕生日はまた、子どものころには、心から楽しめない日でもあった。ちなみに夫の誕生日は8月9日だ。

    8月はまた、インドにとっても大きな意味を持つ月。1947年8月15日はインド・パキスタン分離独立記念日。ヒンドゥー教の国とイスラム教の国とが分断されて、英国統治から独立した。その過程において、途轍もない量の血が流れた。8月のインドの大地に染み込んだ。

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    世には情報が溢れ、テクノロジーは急伸し、しかしその趨勢に追いつけず、何かと気忙しく切迫感と緊迫感が漂いがちな昨今の世界。

    何はともあれ、今、こうして元気に生きていられることに感謝しつつ、速度を落として、心静かに過ごす時間を敢えて敢えて、作りながら、暮らそう。

    後半の写真は、バンガロールの老舗コンビニエンスストア、Thom’s の一隅。もうずっと、ほとんど変わらない様子で繁盛しているこの店に来ると、心底、ほっとする。お気に入りの素朴なポテトチップスを買う。買ったら最後、あっという間に食べ尽くしてしまう危険なおいしさ。

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    今でこそ、ファストファッションの流入や欧米ブランドの進出により、化繊の衣類も普及しているインドだが、わたしが2005年に移住した当初は、綿や絹、麻、竹などの天然素材を用いた衣類が主流だった。

    この20年の間にも、インドのファッション・シーンは変容し続けている。詳細は割愛するが、ともあれ伝統的なテキスタイルや手工芸品を尊重しようという趨勢は保たれていると感じる。

    わたしはインドに暮らしはじめて以来、食品だけでなく衣類もまた、自然志向に移行した。化繊の衣類を着ると、皮膚の呼吸が苦しくなる気さえする。特に夏場は木綿に限る。バンガロールの夏は短く、年間を通して過ごしやすいが、2008年から2年間、ムンバイと二都市生活をしていたころは、ムンバイ宅で木綿の服以外を着ることはほぼなかった。

    木綿服を好んで着るようになったのは、わたしだけではない。我が母も同様だ。かつて母は、しばしばインドを訪れ、3カ月ほど滞在することも何度かあった。そのたびに、インドの廉価で着心地のよい木綿服を購入し、日本の夏の蒸し暑さを凌いでいた。2014年を最後に過去10年は、母はインドを訪れていないものの、わたしは一時帰国のたびに、涼しげな服を選んで持ち帰っている。

    昨今では、インドも物価が上がり、対して日本の円安の傾向もあって、決してインド服が割安だとは言い難い。それでも日本に比べれば、木綿の服を、種類も豊富に廉価で入手できる。

    過去10年あまり、夏の暑さが加速しているとの印象を受ける日本。母とは数日に一度、ヴィデオ電話でやりとりをするが、家に冷房が入っていてなお、暑さが伝わる。ちなみに夏の間は、母は概ね、インドの木綿服を着ている。前回の一時帰国時には、あまり服を買って帰らなかったので、久しぶりに郵便で送ろうと、先日、買い物に出かけた。

    バンガロールにも、ハンドブロック・プリント製品、木綿、絹などの衣類を扱う昔ながらのブランドの店舗がいくつかある。その多くが、北インドのジャイプールを拠点としており、カラフルで魅力的なデザインが多い。

    まずはAnokhiで買い物をするつもりで出かけたが、Leela Palace Hotelに併設するショッピングアーケードが大改装中で、Anokhiが移転していた。他店舗に訪れるには距離がありすぎるので、やむなくインディラナガールのFabindiaとThe Shopの2店舗に立ち寄り、着心地よく涼しげな服を選んだ。本当ならば、実際に試着してもらうのが一番だが、そうはいかない。わたしが試着して、着心地を確認した上で購入する。

    いずれも、昨今のデザイナーズブランドに比べれば、極めて手ごろな値段だ。各ブランドの歴史的背景など、その特徴までも記したいところだが、長くなりすぎるので控える。昨今のインド。魅力的なファッションブランドは無数にあるが、バンガロールに店舗を持つ店の中からいくつかを、以下、参考までに紹介しておく。

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    【ブランド店】

    🍃Anokhi

    🍃Fabindia

    🍃The Shop

    🍃Cottons

    🍃Ratan Jaipur

    🍃Jaypore

    🌻Good Earth

    🌻Nicobar

    【ブティック/複数の高品質なブランドを販売】

    🏡Cinnamon

    🏡ffolio

    🏡Raintree

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