インド百景 2021-2025
天竺の、風に吹かれて幾星霜。ライター坂田マルハン美穂が、南インドのバンガロール(ベンガルール)から発信
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20代、東京。旅行誌の編集者兼ライターをしていたころ。
度重なる海外取材に飽き足らず、短い休暇もまた、取り憑かれたように、旅をした。
好奇心が爆走し、疲れ知らずだった。少々、体調を崩しても、たちまち回復した。
プライヴェートは、100%一人旅だった。取材では行けなかった土地を中心に。
中国、モンゴル、バリ……。フリーランスになってからは、3カ月の長期休暇をとって、欧州を列車で放浪した。
一人旅ゆえ、時間は潤沢にある。カメラとフィルム、地図、そして筆記具が必携品だった。
今なお、何冊もの旅ノートは、大切な宝物だ。
この1992年、バリ旅の記録もまた。歳月を重ねてなお、ページをめくれば、32年前が瑞々しい。
20代半ば。まだ「丸文字」など書いていて、こればかりは恥ずかしい。
キャラが違うやろ!
「かわいげ」など望まずに、しっかりと、自分の文字で書いておくべきだった。
自己肯定感低めに、しかし諦められず、自らを鼓舞していた20代の葛藤。
自分らしさを見つめて、自分らしさを愛おしめばよかった。
あなたは、あなたらしく、あなたのままで、よかったのだ。
わたしは、わたしらしく、わたしのままで、よかったのだ。
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When I recently attended the Mysure Literature Festival, I wore an Indian bandhani (tie-dyed) saree on the first day and a Japanese Arimatsu Shibori yukata on the second day.
Many people asked, “You made this yukata in Bandhani, didn’t you?”
I dared to choose a saree and a yukata with the same technique to express the historical connection between Indian and Japanese textiles. However, they were so similar that it did not seem to be Japanese.
Shibori is a cloth-making technique known as “Tie & Dye” in English, and “Bandhani” in India. The history of this technique dates back to the Indus civilization. The dyeing technique originated in India and came to Japan via the Silk Road around the 7th century. In the Nara period (710-794), various techniques were born one after another in Japan. Among them, Kyoto’s “Kanoko-Shibori,” which reached its peak in the Edo period, is widely known.
It is said that the Shibori technique developed in Japan was brought to India by Rabindranath Tagore. He was a close friend of Kakuzo (Tenshin) Okakura and visited Japan many times. His passion for the revival of traditional arts and the survival of handicrafts has been inherited, and in 1997, the 2nd International Shibori Symposium was held in Ahmedabad in 1997.
🇯🇵先日、マイスール文学祭に参加した際、初日はインドのバンダーニ(絞り染め)のサリーを、二日目は日本の有松絞りの浴衣を着た。わたしの浴衣を見たインドの人の多くが「インドのバンダーニで浴衣を作ったのですね」と言われた。
インドと日本のテキスタイルの歴史的な繋がりを表現したく、わたしは敢えて、同じ技法のサリーと浴衣を選んだ。しかし、あまりにも似すぎていたので、日本のものとは思われなかったようだ。
日本では「絞り」「絞り染め」、英語ではTie&Dye、インドではバンダーニ(Bandhani)と呼ばれる布作りの技法。歴史は遥か5000年前のインダス文明に遡る。インドで生まれた染色技術が、シルクロードを経て日本に渡来しのたは7世紀ごろ。奈良時代には日本独自の多様な技法が次々と誕生した。中でも江戸時代に隆盛を極めた京都の「鹿の子絞り」は、広く知られるところだ。
日本で育まれた絞りの技術は、ラビンドラナート・タゴールによってインドにもたらされたという。インド国歌を作詞作曲、ノーベル文学賞を受賞した偉大なる詩人、思想家タゴール。彼は岡倉天心との親交も深く、何度も来日している。伝統芸術の復興や手工芸の存続にも尽力していた彼の情熱は、継承されてきた。1997年には、北インドのアーメダバードで、第2回国際絞りシンポジウムが開催されるに至った。
インドと日本の歴史的な繋がりの豊かさは尽きず。共通項を拾い集めることは、則ち日本の歴史を辿ることでもあり。テキスタイルひとつをとっても、その深淵に圧倒されるのだ。
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マイソールに行く前日、短期修行生のチネケさんと二人で、慈善団体を訪れた。わたしが彼女と行動できる時間は限られている。当初はバンガロール中心部を巡りつつ、この街の歴史や特徴などを説明しようと思っていた。しかし前日になり、急遽ニューアーク・ミッションへ連れていこうと閃いた。
💝New Ark Mission 過去の訪問記録
https://museindia.typepad.jp/mss/new-ark-mission-home-of-hope/パンデミック明けから、日本の学生たちからの問い合わせが増えている。特に「インドで慈善活動」「バンガロールのスタートアップ」というのは、紋切り型とも言うべくキーワード。それらの情報が突出しているのは現実だが、概念だけが浮遊している。
「インドの貧困層を救いたい」「社会に貢献したい」という慈愛の気持ちは、もちろん尊い。しかし、たとえば街中で盗難に遭い身一つになったとき、関係者の電話番号も、宿の住所も、街の地図も、頭の中に入っておらず、途方に暮れるであろう「スマートフォン頼り」の日本人学生が、どうやって劣悪な環境に喘いでいる人々を助けることができるだろうか。
飛行機の酸素ボンベが降りてきたとき、まずは自分が装着して、次に子供に装着する。自分の身が守れてこその、他者の救済だ。ゆえに、学生らには「まずは現場を見て、経験させてもらう」という立場で訪問してほしいと伝えている。まずは体験する。そのうえで、自分ができることを模索してほしい。経験や知恵を身につけ、たとえ微力でも、ある程度のサポート力をつけて初めて「実践的な貢献」ができる。
百聞は一見にしかず。
ニューアーク・ミッションへの道中、子どもたちへのお菓子やヤクルトを買う。現地では、いつもの通り、わずかながらもミューズ・クリエイションからの寄付金をお渡しした。
以下、チネケさんの感想を転載する。全体に長くなったので、続きはコメント欄に記載している。ぜひ最後まで読んでほしい。
彼女は修業生につき、文章力を指導すべく、大幅に校正を入れた。また、自分が最初に書いた文章と、わたしが校正した文章を「手書きでノートに書き写す」よう指導した。なぜなら「手書き」という手間をかけることで、脳内から言葉が浮かび上がったり、表現を咀嚼したりする時間が得られるからだ。また、感情の暴走や、類似の表現の頻用を防ぐこともできる。最初から文章力の高い人もいるだろうが、手間や時間をかけることで、眠っていた実力が刺激され、より成長する。
「アナログに過程を経る」ことの意義を、若い世代に伝え続けたいと、改めて思う。
🖋チネケ千慶(ちせ)さんの感想
わたしは先日、美穂さんと共にバンガロールにある慈善団体「NEW ARK MISSION」を訪れた。訪問の際の感想を残すようにと美穂さんに言われたが、これはとても難しい作業だった。わたしにとって、あまりにも衝撃的な内容だったからだ。
自分の中の様々な感情が複雑に入り交じっているが、言葉にできる限りの感想を残したい。
美穂さんと一緒に車を降りて敷地に入ると、そこには様々な年齢層の女性がいた。男性と女性はそれぞれ別の棟で暮らしており、今回は女性の棟を訪れたのだ。出迎えてくれたのは穏やかな表情をしたDivya。彼女は成人するまで家族と暮らし、仕事もしていた。にもかかわらず、様々な不運が重なり、NEW ARK MISSIONに引き取られるに至ったという。現在は当慈善団体のオフィスで働いているDivyaに案内され、NEW ARK MISSIONの動画を見る。そこにはショッキングな光景が映し出されていた。完全に衰弱して皮と骨だけになっている人、手が壊死し蛆虫が湧いている人。
それでも彼らは生きている。路上で苦しむ彼らのような人々を救済しているのは、NEW ARK MISSION設立者のRajaだ。Rajaは医師免許を持たずして自らの手で彼らの汚れを取り、救済措置を取る。そして自ら彼らを抱き上げ、施設に連れていく。慈善団体は全て寄付金でまかなわれており、政府からの支援は皆無だという。毎日誰かが運ばれてきて、毎日誰かが死んでいく。
「一日一日がチャレンジなんです。」とDivyaは言う。わたしは、彼女の説明を聞きながらもどう反応していいのかわからなかった。ただ愕然とし、言葉を失っていた。
Divyaのあとに続き、施設内を周る。すれ違う人々とは距離感を覚えるが、なかには少し温もりのある表情で手を振ってくれる人もいる。彼らの約80%は精神疾患を抱えており、薬を服用している人も多い。病室には何台かの簡易ベッドが並んでおり、蚊やハエが飛んでいる。重い病を発症している人たちがベッドに横たわっていた。
別棟の広い場所には身心ともに回復した人たちが、800人を超える施設の人々のために食事を準備していた。座って野菜を下ごしらえする人もいれば、大きな窯でご飯やおかずを調理する人もいる。
ひと通りの施設の案内を終えてオフィスに戻る。わたしは涙が溢れそうになった。そのときの感情をどう表現していいのかわからないが。
誰かの幸せを心の底から願い、果敢に立ち向かう人がいるということ。 人を助けることがいかに困難だということ。 人間としての尊厳がない生活を送っている人が未だに多くいるということ。
すべて知っていたはずの事実であったが、わたしはそれらを実感していなかったのだ。
自分がどれほど世界を「知らなかった」のかと、心を撃ち抜かれた気分であった。ニュース見て、書籍を読むだけでは実態はわからない。その日、わたしは現地へ足を運び、生の情報を聞き、自分の目で見て初めて、虐げられた人々の現実を実感することができたのだ。
訪問を終えて車に戻り、美穂さんと二人きりになったとき、何も言葉がでなかった。帰りに寄った韓国料理店でやっと気持ちが落ち着き、普段通りに会話をすることができた。一口目に飲んだコーン茶がとてもおいしくて、喉にスーッと入っていた。好物のジャージャー麵を食べながら、美穂さんと訪問について振り返る。
インド社会の最底辺に属する人々のショッキングな状況。NEW ARK MISSIONの困難に挑戦し続ける姿。最初は負の衝撃に愕然とするばかりだった。しかし、店で落ち着きを取り戻したとき、前向きな気持ちも生まれていた。わたしは、Rajaの他者に対する大きな愛、困難に立ち向かう強さに感動していた。それと同時に、今のわたしは微力だが、誰かのために自分にできることをしたいと強く思った。
食事をするうちにも気持ちが落ち着いてきたわたしは、今の自分ができることについて、美穂さんと話し合った。日本にも、社会問題はある。その問題の改善に向けて、わたしにもできることがあるはずだ。たとえば、自分の家の近所の貧困世帯の子供たちと一緒に、白米やみそ汁などの健康的なご飯を作ること。高齢の方々と若い人々が交流する機会を設けることなど……。
料理を食べるまでは重かった気持ちが、一気に明るくなった。
苦しむ人々の救済のために身を挺して生きるRaja、自らの経験を元に温かく学びある時間を与えてくださる美穂さんに、感謝を申し上げたい。
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昨日は、正午にマイソールのホテルをチェックアウトして、バンガロールへと戻った。すでに記した通り、マイソール=バンガロール間のハイウェイが数年前に完備し、わたしが前回訪れた2021年とは道中の情景が大きく異なっていた。更にいえば、2003年の来訪時とは雲泥の差。別世界の情景だ。
マイソール=バンガロールの道中では、Maddurという村の「ティファニー」という名の食堂に立ち寄るのが恒例だった。この店では、我がお気に入りのスナック「マドゥール・ワダ (Maddur Vada)」が食べられるのだ。ドーナツ型のワダ (Vada) も好きだが、チョコチップクッキーのような見た目の香ばしいマドゥール・ワダも美味なのだ。
昨日も、「ティファニーで昼食を」のつもりだったのだが、ハイウェイ走行ゆえ、路肩の看板が見えるはずもなく。気づけば、あっというまに通過していた。結局、道中での食事は諦め、バンガロール市街に戻って遅いランチを取ったのだった。
道路が整備され、時間が短縮されたことはすばらしい。しかし、ハイウェイと新幹線は同じ。かつては車窓から眺めていたウイスキー蒸溜所AMRUTも、ペリカンの住む村への分岐点も、とてつもない量の稲穂を積んだ牛車も、唯一モダンな店だったCaffe Coffee Dayも、点在していた養蚕農家も、椰子の木揺れる田園風景も、そして立ち寄りたかった「ティファニー」も、走馬灯のように車窓の下を流れ去った。
帰宅して猫らに挨拶をし、ひと段落した後は、YPOのラーニング・イヴェントに参加するため再び外出した。今回のスピーカーは、ギリシャ系米国人の起業家、ピーター・ディアマンディス(Peter Diamandis)。シンギュラリティ大学(Singularity University)やゼロ・グラヴィティ・コーポレーション (Zero Gravity Corporation)、Xプライズ財団などを創設した、AI(人工知能)業界の第一人者だ。『楽観主義者の未来予測』や『2030年/すべてが「加速」する世界に備えよ』などベストセラーの著者としても知られる。
さて、昨夜の「BEYOND SINGULARITY(技術的特異点を超えて)」と題されての90分以上に亘るプレゼンテーション。彼の語る現在と未来の話を聞きながら、幾度となく、ぎゅっと心臓を掴まれるような感覚に陥った。
わたしが生きているうちには、「近未来小説」のような世界が実現することはないだろうと思っていた。しかしながら「人間を上回る知性の誕生」、すなわち「シンギュラリティ(技術的特異点)」に到達する日が近いということを、思い知らされた。それが2025年(イーロン・マスク説)なのか、2029年なのか、あるいは2045年(レイ・カーツワイル説)なのか……。いずれにしても、わたしが生きているうちに、何かしらの大変革を自らの目で見ることになりそうだ。
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1988年、わたしが編集プロダクションに就職したとき、社員らのオフィスの机の上にあったのは、山積みの紙の資料、至るところに貼られたメモ、複数の書籍、鉛筆や赤ペンやボールペンや修正液、電話器、灰皿とタバコ、湯呑み……。そんな有機的混沌だった。
いつしかワープロが入り、コンピュータが入り、インターネットが入り、デスクトップパブリッシングが普及し……。時代の変化に追随すべく、新たなことを学び続けてきた36年間だった。会場の外に展示されたAIを利用しての複数のプロダクツ。50,000スクエアフィートの建築物の測量を30分で完了できるという特殊なカメラ(inkers.ai)や、銃弾を込めることなく、兵士がリアルに射撃訓練ができる武器、リアルなヒューマノイドロボット(machanirobotics.com)などを眺めつつ……。もうすでに、我々のライフはシンギュラリティ目前なのだということを認識する。
思えば、いつしか、わたしのアナログなライフスタイルや、膨大な紙の記録が、若者らにとっては「希少価値」として珍しがられている。わたしはこれからも「不易流行」を座右の銘に生きるべし、との思いを新たにする。*不易流行/いつまでも変化しない本質的なものごと(不易)を尊びつつ、新しみを求めて変化(流行)を取り入れていくこと。不易と流行とは根元において結合すべきだという考え。俳諧の極意として、松尾芭蕉が唱えた理念。
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人間3人(!)の写真は、友人のDekyiとその息子、若き起業家のKunzang(19歳)と共に。インド都市部にカプセル・トイ(ガチャガチャ)を展開しているHappy Topia創業者だ。今週の土曜日、彼を招いてトークイヴェントを開催する。彼の両親も参加しての、楽き集いだ。若者らを中心に十数名が参加予定。関心のある方、坂田まで直接ご連絡を。
































































































