

🌸春の到来を知らせるバサント・パンチャミ(Basant Panchmi)
ハリヤナやビハール、西ベンガルなど、北インドの複数の州において、今日は「バサント・パンチャミ」と呼ばれる春の到来、そしてサラスヴァティー(サラスワティ)を祝するお祭りだ。年中、温暖な南インドの州では、あまり馴染みがないが、今年も朝から、WhatsAppを通して、友人から、 “Happy Basant Panchami!”のメッセージが届く。

個人的に、サラスヴァティーは好きな神様で、さまざまにご縁もあることから、家にはラジャ・ラヴィ・ヴァルマが描いた麗しい絵を飾っている。

サンダルウッドのサラスヴァティーは、わたしが移住した当初、著名な歴史学者であり、文化人類学者だった親戚のLotika Varadarajanが、偶然にも贈ってくれたものだ。
Lotika Varadarajan
➡︎ https://thewire.in/society/lotika-varadarajan-obit
サラスヴァティーは学問や芸術を司る、弁舌と知恵の女神で、4本の腕を持つ。1組の腕には数珠とヴェーダ(聖典)、もう1組の腕に弦楽器のヴィーナ(琵琶の起源)を持っている。MUSEとは、ギリシャ神話で9人の女神の総称だが、サラスヴァティーは一人でそれを引き受けている感じだ。
サンスクリット語でサラスヴァティーとは「水(湖)を持つもの」の意。水と豊穣の女神でもあることから、川辺や湖畔にたたずむ姿が描かれる。白鳥あるいは孔雀が乗り物で、白い蓮華に腰掛けている姿は、いかにも優美で美しい。また、サラスヴァティーはゾロアスター教のアナーヒターと同起源でもあるそうだ。

🌸ラジャ・ラヴィ・ヴァルマ描くサラスヴァティーを、明治時代の日本で作られたタイルに見る
インドを知る多くの人が、ラジャ・ラヴィ・ヴァルマの絵画を目にしたことがあるだろう。彼は、絵画を通して、神々の姿を具現化。貧富の差を超え、遍く人々に版画で芸術の世界を広めた伝説のインド画家だ。
高貴な出自である彼は、英才教育を受け、想像力を育むに申し分のない環境のもとで育った。宮廷画家としてその名を馳せ、インド国内を放浪して多くの貴人を描いた。その一方、印象深いのは、自らの絵画を大量にリトグラフ(版画)印刷し、その絵を貧しい人たちにも普及させたこと。
わたしの友人であるギタンジャリ(Gitanjali Maini)は、ラジャ・ラヴィ・ヴァルマの作品を保護し振興するNPO、The Raja Ravi Varma Heritage FoundationのCEOだ。故に、昨年、オンラインでのイヴェント「ミューズ・チャリティフェスト2020」を実施した際、数本の動画を提供してもらうことができた。その中の1本はラヴィ・ヴァルマ本人の生涯をたどる動画、もう1本はラヴィ・ヴァルマの末裔であるラクミニ・ヴァルマの動画だ。
人々が信仰する神々を色鮮やかな色彩とともに具現化したラジャ・ラヴィ・ヴァルマ。当時の芸術界では間違いなく斬新な発想であり、周囲からの批判も多かったのではないかと、容易に想像がつく。この動画を見たことで、彼の生き様がより、魅力的に、興味深く思えてきた。
さて、彼の描いた絵画をもとに、明治時代の日本で作られてた「タイル」が無数にある。新居の準備に際して購入した調度品にと、骨董品店を通してかなりのタイルを購入した。これはそのうちの一枚。ラジャ・ラヴィ・ヴァルマや和製マジョリカ・タイルについては、詳しく記しているので、関心のある方はぜひ下記をお読みいただければと思う。
🇯🇵日本から来ました! 欧州発、日本経由インド。旅するマジョリカ・タイル。
➡︎ https://museindia.typepad.jp/2021/2021/09/tile.html
🇮🇳インドの神々を描いた伝説の画家ラジャ・ラヴィ・ヴァルマ
➡︎ https://museindia.typepad.jp/library/2021/07/raja.html

🌸英国で印刷されたラジャ・ラヴィ・ヴァルマの絵画ポストカード
これも先日、骨董品店で購入した古いポストカード。印刷の具合と紙質、保存状態のよさに感嘆して購入。こんなにもたくさんのカードをどうするんだという気がしないでもないが、ただ、眺めるだけで楽しいのだ。このカードについても、書きたいことがありすぎるのだが割愛。

🌸夫方の祖父とサラスヴァティー。彼はまた鉄鋼ビジネスで、わたしが生まれた1965年に、日本へも訪れていた
インディラ・ガンディ元首相と写っているのは、夫の母方の祖父。実業家であり、政治家でもあった祖父は、鉄鋼会社、製糖会社など複数の会社を創設した。現在は、いずれも夫の従兄弟が継いでいるが、製糖会社の名前が「サラスヴァティー・シュガー・ミルズ/Saraswati Sugar Mills」というのだ。
我が夫曰く、インドの実業家の多くは、富の女神ラクシュミを祀る人が多いが、祖父は金銭的利益もさることながら、「知恵や芸術」を重んじていたが故、サラスワティを冠していたという。

これは、祖父の書斎かけられていたというタゴールの石膏蔵。2020年、義父の他界時にデリーの家の片付けをした際、撮影した。
印パ分離独立の直前にラホールからデリーに移った夫の祖父の人生は、あまりにも波乱とドラマに満ちており、十分、映画になるストーリーだ。祖父のことについても、いつかきちんと記録に残しておきたいと思う。
もしも彼が日本を訪れていなかったら。そして以下のエピソードがなかったら、我が夫はわたしに「ひっかからなかった」かもしれない。
🌸日本を訪れていた祖父。「名言」に影響を受けていた我が夫(2020年2月の記録より転載)
「世界で最も幸せなことは、アメリカの家に住み、フランス料理を食べ、日本人の妻を持つこと」
「世界で最も不幸なことは、日本の家に住み、アメリカ料理を食べ、フランス人の妻を持つこと」
結婚前には一度も口にしたことがなかったこのフレーズを、結婚後、たびたび持ち出すようになった我が夫。子供のころから、母方の祖父に聞かされていたという。
故に米国在住時、わたしとともにフランス料理を食べているときには、彼は世界で最も幸せ者だったというわけだ。
ピストルを携え、大金入りの鞄を車に詰め込み、分離独立直後の印パ国境地帯を猛スピードで走り抜けた祖父。最早、我が脳内では『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』的な映像が展開されているその祖父が、かように軟派な発言をしていたことに違和感だ。
しかし、先日、ランジート伯父にその件についても問うたところ、事実であった。
「そうそう。親父はその話をよくしていたよ。KAWASAKIに行ったあとからだから、日本人から聞いたんだと思うよ」
川崎!? ゴッドファーザーな祖父もまた、日本に行ったことがあったとは。わたしばかりか、夫さえ知らなかった。現在はランジートの息子、即ちアルヴィンドの従兄弟が継いでいる、祖父創業のISGECという鉄鋼会社及び製糖会社は、今でこそ日立造船や住友金属などと仕事をしているが、祖父の代から日本と関わりがあったとは知らなかった。
「親父と僕は、1965年ごろ、何度か川崎に行ったよ。当時はビジネスに発展しなかったけどね」
わたしが生まれたころ、事業家であり政治家でもあった祖父は日本に足を運んでいたのだ。実は、マルハン実家には、母方祖父の思い出の品々も残っており、その中に日本的なものが散見され不思議に思っていたのだが、腑に落ちた。
🇮🇳🇯🇵8月15日。インドの独立記念日と日本の終戦記念日が同じ日なのは偶然ではない。印パ分離独立を巡る我が家族の物語など。
〜夫の母方祖父の話が、映画並みにドラマティック。インドに関心がある方はぜひご一読を〜
➡︎ https://museindia.typepad.jp/library/2021/08/815.html

🌸弁財天の起源としてのサラスヴァティー。我が故郷の名島神社(宗栄寺)の名島弁財天
転じて、サラスヴァティーと、日本とのご縁。七福神の一人である「弁財天」は、サラスヴァティーが、その起源。大黒天、毘沙門天も、ヒンドゥー教の神様が起源である。
以下の写真は、十数年前に一時帰国した際、実家の近くにある名島神社を訪れたときのもの。わたしが子どものころから、両親が毎月のように詣っていた場所だ。この名島神社に隣接する宗栄寺に、弁財天が祀られている。そもそもは、名島神社とともに祀られていたが、明治の神仏分離令(←この間の仏教セミナーで言及したばかり)により、「宗栄寺」に分けられたという。





🌸おん そらそばてい えいそわか oṃ sarasvatye svāhā
弁財天の真言である「おん そらそばてい えいそわか oṃ sarasvatye svāhā」の「そらそばてい」とは、「サラスヴァティー」のことである。
弁財天ではまた、蛇も祀られている。ゆえに巳年のわたしとしては、ここにもまた少なからず、ご縁がある。
そして一隅にある宝篋印塔(ホウキョウイントウ)。これは、インド史上唯一、仏教を国教としていた時代の統治者、アショーカ王に縁がある。これもまたセミナーで触れたばかり。書きはじめると尽きないので割愛するが、ともあれ、歴史を遡れば、日印の繋がりの多さ、地球の丸さを思い知る。
最後の写真は、名島の海。昭和6年(1931年)9月17日。今からちょうど90年前。リンドバーグ夫妻が世界各国親善訪問飛行の途中、かつてここにあった「名島水上飛行場」に飛来した。
幼いころのわたしは、水平線を見るのが好きだった。太陽が照りつける水面に、トビウオが飛ぶさまを、眺めたころの懐かしき。
うみは ひろいな 大きいな 月がのぼるし 日がしずむ
うみはおおなみ、あおいなみ ゆれて どこまで つづくやら
うみにおふねを うかばして いってみたいな よそのくに。
海の向こうにある世界を想像すらできず、ただ水平線を眺めていたころ。子どものころの好奇心を満たしながら、今のわたしは異郷で生きている。しかし海を越える以前から、異郷の文化は、ひどく身近にあったのだ。

