インド百景 2021-2025

天竺の、風に吹かれて幾星霜。ライター坂田マルハン美穂が、南インドのバンガロール(ベンガルール)から発信

MUSE INDIA / HOMEPAGE

✈︎ 過去ブログ/2005〜2025

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    昨日は、ランチの帰路、久しぶりにショッピングモールの「1MG」に立ち寄った。

    昨年、ロックダウンに入ってからというもの、それまで以上にオンラインでのショッピングが「通常モード」となった。最上階のFoodhallに立ち寄るのは、一年以上ぶりだ。久しぶりに足を踏み入れ、その商品の量の充実ぶりに目を見張る。

    バンガロールの老舗スーパーマーケット兼コンビニエンスストアといえば、1962年創業のThom’s Bakery & Supermarket。通称トムズ。2010年代の一時期、スーパーマーケットが次々に誕生した時期があったが、この店の「安定感」は不動だった。新しい店が消えても、未だ健在だ。

    そもそもケララ出自のクリスチャンが創業したトムズ。西暦52年という早い時期に、インドにキリスト教をもたらしたとされるキリスト十二使徒の一人、聖トマスに因んでの「トムズ」である。ローカルのクリスチャンの中には、この店のことを、故に「トマス」と呼ぶ人もいる。

    従業員もみな、ケララ出自の人々。何かしらの安定感があるのだ……と、今日は、トムズの話題ではない。

    Foodhallは2012年、小売大手のフューチャー・グループによって創業した、富裕層向け高級スーパーマーケット。当初はムンバイ 、デリー、バンガロールなど都市部のショッピングモールの中にオープン、輸入食料品などを扱ってはいたものの、品揃えは決して豊富とはいえず、陳列棚にもずいぶん「ゆとり」があった。

    ところが、昨日久しぶりに訪れて、驚いた。

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    全体に「非常に密」なのだ。特にFoodhallの独自ブランド、ARQAのスパイスコーナーの充実ぶりには目を見張る。かつてARQAは「アーユルヴェーダ」に特化したスパイスを販売していた気がするが、今や他国からの輸入スパイスも含め、コンディションのよいオーガニックの各種スパイスが並んでいる。

    我が家は、自宅で胡椒が収穫できるし、その他のスパイスも少し買えばしばらくもつので、さほど必要ではないのだが、眺めているだけでも楽しくなる。

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    各地から取り寄せられた、何種類もの季節のマンゴー。ずいぶん手頃な値段になった新鮮な葉野菜各種。インドらしさが漂うシュガーケーン(さとうきび)ジュースコーナー……。インドのロジスティック(物流)事情の向上が、その商品構成を一瞥しただけで感じられる。

    店中の随所を撮影して紹介したくなる衝動に駆られるが、自分の買い物をすませて早々に退散。

    オンラインショッピングは便利だが、こうして実際にお店を巡るのも楽しい。不要と思われる「回り道」の途中に、新しい発見がある。COVID-19が落ち着いたら、久しく保留となっている「お買い物ツアー」なども実施したいと思う。

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    オープニング前のパーティに引き続き、先日、ひとりで夕食を食べて、すっかり気に入ったインディラナガールのARAKU COFFEE。今日は、バンガロールで働く「コーヒーが大好き」だという日本人女性と初対面ランチを楽しんだ。

    普段のわたしは、冷たいコーヒーを飲むことはないのだが、前回のDARK&STORMYがおいしかったものだから、今回もコールドブリュー・コーヒーを。オレンジの香りが爽やかなCAFE L’ORANGE。「全メニューを制覇したい」との思いもあり、前回とは異なるお勧め料理を、シェフのラーフルに尋ねる。

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    アンドラ・プラデーシュ州にあるイタリアン・チーズ工房から届くブッラータ モッツァレラ(生クリーム入り)が主役のBURRATA & SOURDOUGH WAFFLE。

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    サンチョーク(Sunchork)という根菜や玉ねぎのグリル SUNCHOKE ROAST。イスラエル・アーティチョークとも呼ばれるサンチョークは、日本語でキクイモ。

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    自家製チキンのひき肉に包まれたSCOTCH EGGS。

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    そして紫さつま芋のニョッキと黄金色のさつま芋のグリル添え。料理名、不明。

    今日の料理で使われた野菜類の多くは、プネにある契約農家から届いているという。

    二人でシェアしながら、味わう。いずれも素材の滋味が感じられ、本当に美味。

    食後のデザートは、前回の中東スイーツKANAFEがおいしかったので再び。そしてパッションフルーツのケーキ。二人だと、あれこれ試せるので楽しい。

    店内は、休日ということもあって、ほぼ満席の人気っぷり。たまたま訪れていた友人らにも声をかけられる。気がつけば3時間以上も過ぎていて、本当に居心地のいい店だ。

    バンガロールにお住まいの方、改めて、お勧めです。

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    久しく『マルハン家の食卓』というブログを書いてきた。しかし、一年前、ロックダウンに入ったあとから、更新が滞っていた。

    滞っていた期間に、我が家の食卓は大きく変化した。

    バンガロールにおいては特に、食材及び飲食店のデリヴァリーの拡大、買い物代行サーヴィスの拡充、「身体によいもの」「品質の高いもの」の増加が顕著だ。現在、我がインド生活は16年目に突入しているが、この1年間の急伸ぶりは特筆すべきだと実感する。

    というわけで、記録をきちんと残しておこうと、数日前から、ソーシャルメディアに記載してきた食の記録を、少しずつ『マルハン家の食卓』に転載している。週に1、2回の記録ながら、塵も積もれば山となり、なかなか先に進まない。

    さて。アルチザン・ブレッドのKRUMB KRAFTは、お気に入りのベーカリーとして我が家の定番となった。この店を知ってから、よくも悪くも、自宅でパンを焼かなくなってしまった。

    このベーカリーの楽しいところは、そのときどきで、期間限定のパンやお菓子が販売されること。定番化してほしいものもあるが、店側も、多分、試行錯誤しているのだろう。

    今回は、ゴールデン・レーズンが入ったHot Cross Bunsと、Cinnamon Rollsを試してみた。どちらも、甘さ適度にとてもおいしい。オーヴントースターを温度低めに設定して、少し時間をかけて温め直す。コーヒーとよく合う。

    Caramelised Onion Whole Wheat Crackersは、毎回購入。ちょっとお腹が空いた時に数枚食べる。ワインやビールにもよく合う。KRUMB KRAFTは、チーズやジャム、ディップ、スパイスなど、そのときどきで販売している。

    今回、眼にとまった「Golden Milk Masala」。ゴールデン・ミルクとは、ターメリック入りの牛乳のこと。インドでは「Haldi ka doodh」と呼ばれ、昔から健康によい飲み物として愛飲されている。

    5年ほど前、米国人の書いたトレンド記事で「ターメリック・ラテ」という文字を見かけて、ちょっと笑ってしまった。名前によって、ずいぶんお洒落な印象になるものだと。

    わたしはインド移住早々のころ、ヨガの先生に教わって以来、ちょっと体調が悪いな……というときに、温めた新鮮な牛乳にターメリックの粉とハチミツ(どちらもオーガニック)を入れたものを飲んで眠る。すると熟睡できて、翌日にはかなり爽快に目覚められるのだ。『インドの食生活と健康管理』のセミナーでも、伝授している。即、実行して「効果がある」と報告してくれる人もいる。

    マサラ・チャイは、折に触れ、自宅にあるスパイスを使って、そのときどきの気分で適当に作るのだが、これがちょっと面倒な時もある。そんなときに、この「ゴールデンミルク・マサラ」は使えそうだ。さまざまなスパイスと茶葉が粉状になっていて、温めた牛乳に入れるだけでよいらしい。
    一から作る方がおいしいに違いないが、実はパッケージの雰囲気に心惹かれて購入した。ジャケ買いである。明日にでも、作ってみようと思う。おいしいといいな。

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    🌳Bangalore Scenes (1/3) たとえ都市化が進んでも、やっぱりここは、ガーデンシティ。

    所用で外出。用事を済ませた後、特にあてもなく、車で市街を走る。

    いつもは後部座席だが、木の花が咲く、この季節、しっかりと光景を眺めたく、助手席に座る。前方に広がる光景は格別。

    自分で運転をしたいとの衝動に駆られる。インドの運転免許証は持っているし、我が家の車はオートマティック車なので、運転しようと思えばできるのだが、この道路交通事情を思うと、運転する気にはならない。なにしろドライヴァーのアンソニーの運転がとてもうまいので、彼に任せっきりである。

    10日ほど前までは、桜によく似たピンク・テコマが満開だったが、すでにほとんど散っている。これから先は、グルモハル、火焔樹が赤く燃え咲くことだろう。

    この街は、最初から緑に溢れていたわけではない。バンガロールの樹木の多くは、18世紀にマイソール王国を統治していたティープー・スルタンが、ペルシャやトルコ、アフリカ大陸、南アメリカなどから運び込ませたという。

    たとえば、前述のグルモハルは、マダガスカルから。空を覆うばかりに枝葉を広るレインツリー(この木なんの木、気になる木、の、あの木)はカリブの島から。ブーゲンビリアはブラジルから。

    写真にもある紫色のジャカランダもまた、ブラジルから。そのあたりの詳細は、ちょうど10年前、ラル・バーグ植物園ツアーに参加した時の記録に残している。近々、ブログにまとめて転載するので、関心のある方は、後日ご覧いただければと思う。

    でもって上の最後の写真、よ〜く凝視して欲しい。生き物が、紛れているところがシュールです。

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    🌳🥥Bangalore Scenes (2/3) マレシュワラムのMTRでスペシャルなミールスを食す。

    軽くドーサでも、と思ったのに。というか、ドーサですら、軽くないのに。ついついうっかり、「スペシャル・ミールス」などを注文してしまったランチタイム。プーリーやらビシベレバスやらプラオやらカード(ヨーグルト)ライスやらスイーツ各種やら、出てくる出てくる。食べても食べても増量しない代謝のいい身体をください神様。

    路傍にて。写真を撮りたくて車を降りたら、魅惑的な果実に目がとまった。

    インド生活16年目にして初めて食べる、このツルンとした果実。タミル・ナドゥのココナッツらしい。あ〜名前を忘れた! 調べても出てこない。明日、ドライヴァーのアンソニーに尋ねよう。ココナッツ&ココナッツウォーターは非常に身体によい。神様への捧げ物にもなる。このあたりの話は、動画でも詳細を説明している。この、まるでジェリーのような果実のなかに、ほんの少しの果汁が入ったココナッツも、きっと身体によいのだろう。

    これもまた、後日ブログにて紹介するので、関心のある方は、後日ご覧いただければと思う。

    路傍で1房、食べた後、自宅できれいに薄皮を剥いで洗い、夫に出した。

    「中に液体が入っているから、一口で食べて。……なんだと思う?」

    「ん……? コンニャク……?」

    日本人かよ!

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    🌳🌼🦜Bangalore Scenes (3/3) ドライヴの最後に、市民憩いのカボン・パークへ。

    ニューヨークでは、アッパーウエストサイドに住んでいた。セントラル・パークまで徒歩5分。あの公園は、あのころのわたしにとって、「命綱」のような存在だった。大都会の真っ只中にありながら、豊かな自然がそのままに在るセントラル・パーク……。

    毎年5月の渡米時には、必ず近くにホテルを取り、朝な夕なに足を運んできた。去年も、今年も、あの新緑の息吹を感じることができないと思うと、本当に遣り切れない。

    遣り切れないと嘆いても仕方ないので、バンガロールの中心街にあるカボン・パークに立ち寄った。実は移住当初に訪れて以来、中に入ったことはなかった。ところが……かなりいいではないか、この公園! かつては、おっさんたちが随所で昼寝をしているのが、どうも居心地が悪かった。いや、今でもおっさんたちが随所で昼寝をしているには変わらないのだが、なんやかんやで、感性が寛大になった。

    これからは、外出のついでに立ち寄って、少し散歩をしてみるのもいいかもしれない。

    少し外出をしただけで、記録しておきたい光景が随所に。綴っておきたい事実も尽きぬが、今日はこの辺で。

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    COVID-19共生世界に突入したからというもの、かつて以上に、身体の基礎的な免疫力を高めることを心がけている。無論、わたしたちはノンヴェジだし、わたしは日々、アルコールを摂取しているし、そこまで厳格に健康志向ではないのだが、できる範囲内で、自然の恵みを純粋に取り入れている。

    毎朝の1杯。かつては、ターメリックと蜂蜜をお湯で割って飲むのが定番だった。しかし今年に入ってからは、インドのAYUSH省が勧める、感染症に効果があるスパイスを加えることにした。トゥルシ(ホーリーベイジル/聖なるバジル)、シナモン、ショウガ、コショウなど。

    過去、すでに掲載した写真も混ざっているが、改めて。

    本日の豪華フォーミュラは、ヒマラヤの蜂蜜、すり下ろしたばかりのターメリックとショウガ、庭で収穫して乾燥させた粒胡椒、Gourmet gardenからギフトでいただいたオーガニックのシナモンとクローヴ、HappyHealthyMeのInvincible Supergreens(モリンガや青麦若葉、アムラが入った「無敵の粉」)、庭で育てているトゥルシとミントの葉を加えた。

    あれこれ混ぜればいいってわけではない。と言われそうなほどの混ぜっぷりだが、混ぜてもよかろう。と、思っている。

    なにしろ、複数のスパイスが共在する「カレー料理」とは、このようなものである。

    本来は、そのときの体調や気候に合わせて、スパイスをブレンドするのがよいのだが、今日は気分的に、あれこれ入れてみた。

    シナモンやショウガ、クローヴ、葉っぱなどは、捨てずにしばらく咀嚼する。クローヴは歯や口内の環境保全にも貢献してくれる。目覚めたての身体が、大地の恵み享受する。ありがたい。

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    🇮🇳インドには、アーユルヴェーダやヨガを研究、推奨する「AYUSH省」がある。2014年、現在のBJPモディ政権が樹立したあとに発足されたもので、インド中央政府厚生省に属する。近代西洋医学以外の医療政策を統括している部門だ。このサイトでは、同省が提案する健康に関する情報がしばしばアップデートされている。

    🙏AYUSHとは、以下の頭文字を表している。

    *Ayurveda(アーユルヴェーダ/インド5000年の伝承医学)

    *Yoga & Naturopathy(ヨガ&ナチュロパシー)

    *Unani(ユナニ医学/古代ギリシャの医学を起源とする印パ亜大陸イスラム文化圏の医学)

    *Siddha(シッダ医学/南インド、タミル地方に伝わる極めて古い伝統医学で、起源は1万年以上前)

    *Homeopathy(ホメオパシー/ドイツ起源の自然療法)

    ★Ministry of AYUSH, Government of India
    ホームページはいまいち旧式で見辛いが、FacebookやInstagram、Twitterで、参考になる健康管理情報が発信されてくる。お勧めです。

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    🌸Photos/ April 2003, Washington, D. C.

    今年もまた、米ワシントンD.C.のポトマック河畔で、桜が満開になり、多くの花見客でにぎわっているとのニュースが届いた。

    毎年、D.C.の、桜の開花のニュースを目にするにつけ、2004年4月7日に他界した同じ歳の友人、小畑澄子さんのことを思い出す。

    「桜の季節以外にも、思い出してよ!」

    と、言われてしまいそうだが……ごめん。もう、そんなにしょっちゅうは、思い出さなくなってしまった。けれど、わたしにとって、彼女が掛け替えのない友だったということは、どんなに歳月を重ねた今でも、変わらないし、これからも変わることはない。

    1996年4月。当時、日本でフリーランスのライター&編集者だったわたしは、旅行誌の取材で海外出張が多かったにもかかわらず、英語力がなかった。ゆえに1年間の語学留学予定でニューヨークへ渡った。

    ところがなんだかんだあり、同年9月には、現地の日系出版社で現地採用で働くことになった。業種は「広告営業」。本来はライターか編集の仕事をしたかったのだが、社長から営業職を勧められた。短期間のことだし、新しい経験だからと、その仕事を始めた。

    小畑澄子さんは、その出版社で編集を担当するライターだった。

    その会社に在籍していたときには、ほとんど交流のないまま、彼女はハズバンドと共にダラスへ移住。わたしが1998年に出版社ミューズ・パブリッシングを立ち上げ、一人で東奔西走しながら働いていたころ、彼女たちはマンハッタンへ戻ってきた。

    当時、ミューズ・パブリッシングが発行していたフリーペーパー『muse new york』の国際結婚のカップルを紹介する記事で彼女を取材したころから、交流が深まった。

    思えば彼女は、メールマガジンや旅の記録、拙著『街の灯』など、ありとあらゆるわたしの文章を、しっかり読んで、折に触れて感想を伝えてくれる、本当に稀有な存在だった。

    嫌がる夫を説き伏せながら、じわじわとインド移住へ向けての外堀を埋めていった当時のわたし。強い決意で、何もかもを自分で決めてきたような気がしていたけれど、今振り返れば、彼女からの前向きなことばが、どれほど心丈夫だったろう。

    今日は、インターネットの海の底に眠る小畑澄子さんの記録をそっとすくいあげて、ここに転載した。転載しながら、泣けて仕方がない。

    「生きられる人間は、生きている以上、ちゃんと生きなきゃ。」

    過去の自分に叱咤される。

    以下、長い記録だが、小畑さんの生き様の断片が滲んでいる。ぜひ、読んでいただければと思う。

    思えばわたしが、夫と日々バトルを展開しつつも、なんだかんだ20年間、夫婦でいられるのは、思えばあのときの彼女の言葉が、心のどこかにあったからかもしれない。いや、明らかにあると、久しぶりに読み返して気がついた。

    「互いに対する期待値を下げたら、いい関係を保てるようになった。」

    今更ながら、本当に、そうだ。

    小畑さん、ありがとう……!

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    🌸当時、我々夫婦が暮らしていたアッパー・ジョージタウンのALBAN TOWERの斜向かい、国立大聖堂の庭園。窓からカセドラルが見える、こんなすんばらしい場所に住んでいながら、インドを目指した自分がミステリアスでしかない。
    https://www.equityapartments.com/washington-dc/cathedral-heights/alban-towers-apartments

    【2014年4月15日の記録】

    米ワシントンのポトマック河畔で、桜が満開になり、多くの花見客でにぎわっているとのニュースを目にして、今日。たちまち、ワシントンD.C.の春の頃に、記憶が飛ぶ。

    2001年9月11日、ニューヨークとワシントンD.C.を襲った同時多発テロを契機に、それまで暮らしていたマンハッタンを離れ、結婚したばかりの夫が暮らすワシントンD.C.に移り住んだ。当面は遠距離結婚を、と思っていたが、それは半年で幕を閉じた。

    ワシントンD.C.。その一見麗しい米国の首都での日々は、しかしわたしにとって、苦い思い出もまた、多かった。自分自身のこと。そして周囲のこと。このころは、「命」に対して考えることが多かった。

    2000年1月、父が末期の肺がんを言い渡された。2001年9月、米国当時多発テロの直後、友人の小畑澄子さんが、末期の大腸がんを言い渡された。その二人が他界したのは、2004年。ポトマック河畔、タイダル・ベイスンに桜が咲き誇っていたころだ。

    二人とも、「余命宣告」より遥かに、長く、強く、生きていた。しかし小畑さんは、2004年の4月7日に、そして父は、5月27日に、この世を去った。さらには6月、母方の祖母も、長い入院生活を経て他界したのだった。

    ワシントンD.C.の、タイダルベイスンの桜は、見事だ。その見事な桜の苗木は、1912年、当時東京市長だった尾崎行雄から贈られたものだ。この「ヨシノ」以外にも、ワシントンD.C.には、随所で、さまざまな種類の桜を見ることができる。

    あの街に暮らしていた4年間。長い冬を経て、この桜が咲くころが、本当に待ち遠しかった。

    ナショナル・カセドラル(国立大聖堂)の庭、ビショップス・ガーデンに咲くしだれ桜。わたしたちは、このカセドラルの斜向いに住んでいた。実に、実に麗しい、ご近所であった。しかし、あのころのわたしは、この街から脱出したくてならなかった。結果、インドに住む現在のわたしに至る。

    それにしても、デジタルで記録された写真の、色あせないことよ。まるでつい最近のことのように蘇り、時間の距離感が伸縮して、気持ちが落ち着かない。

    かれこれ30年ほど前、サクラカラーが、「百年プリント」というフィルムを発売した。山本寛斎が、このプリントは、百年間、美しさを保ちます……といったことをアピールするTVCMが記憶に残っている。

    当時は、「百年後なんて、誰も生きていないし、わからないし。」などと思っていた。ともあれ、あの当時、今のようなデジタルカメラが登場し、こうして一般に普及することを予測できた人は、きっとほとんどいなかったに違いない。

    Anyway.

    当時ニューヨークに住んでいた小畑澄子さんは、2003年の春、わたしの住むワシントンD.C.に遊びに来てくれた。あの数日間の出来事は、わたしにとって、かけがえのない思い出だ。

    二人で郊外までドライヴし、ヴァージニア州の「日本風の温泉」に出かけた。ワシントンD.C.に戻ってからは、彼女の夫がジュイッシュだったこともあり、彼女がかねてから行きたかったというホロコースト・ミュージアムへも足を運んだ。その衝撃的なミュージアムはまた、わたし一人では決して行くことがなかったであろう場所でもあった。

    ……彼女との短いながらも大切な思い出は、書き始めるときりがないので、このへんにしておこう。

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    生きられる人間は、生きている以上、ちゃんと生きなきゃ。

    と、強く強く思うようになったのも、テロを身近に経験したり、大切な人々の死に直面した、このころの経験ゆえだ。

    こうして当時のことを思い出しつつ、その思いを大切に蘇らせて、また再び、大切に、きちんと、生きていこうと思わせられる。

    そして、自分の心身を、大切に。

    2009年7月、小畑さんの夫であるケヴィンから、5年ぶりにメールが届いた。 彼はわたしの名を、Facebookで見つけて、メールを送ってくれたのだった。

    5年間、悲嘆に暮れていた。

    彼女の写真を見ることができなかった。

    しかし最近ようやく、彼女のことを書くことができ、ウェブサイトに載せた……との知らせだった。

    ところで、彼女が亡くなって、ちょうど半年経ったとき、奇妙な夢を見た。そのときのことを、当時のホームページの「片隅の風景」に書き残した。それを、今ここに改めて、転載する。今でも、このときの気持ちを思い出すと、本当に不思議な感覚に包まれる。

    あれは、夢だったのに夢ではなかったような気がするのだ。この夢のエピソードを、ケヴィンに送るために英訳したので、それも添えておく。

    下の写真は、夢から目覚めた直後、ベッドから抜け出して窓から眺めた、まだ明けあらぬ朝の光景を、撮影したものだ。

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    The view at dawn from our home in Washington D.C. /October 6, 2004

    「携帯電話」

    桜の花が散るころ、大切な友だちが死んだ。

    新緑が芽吹くころ、日本に住む父が死んだ。

    そして初夏の風が吹くころ、祖母が死んだ。

    * * *

    夜明け前。

    眠りの中で、わたしは、死んだ友だちと、電話で話をしていた。

    彼女の携帯電話に電話をしたら、いつもの声で「もしもし」と彼女が出た。

    「久しぶり!」

    「元気?」

    「相変わらずよ。そっちはどう?」

    「結構、居心地いいわよ。あなたのお父さまにお会いしたわよ。おばあさまにも」

    「すぐにわかった?」

    「うん、全然問題ない。お二人とも、お元気そうだったわよ」

    「またこの番号にかければ話せるよね」

    「うん」

    「また電話するね」

    電話できるんだったら、死んでしまった感じがしないな、会えないだけで。

    そして、目が覚めた。

    地平線の真下に、太陽が潜んでいる時刻はまだ、

    夢と現が入り乱れ、

    息を潜めて、携帯電話を見つめる。

    (2004年10月6日の『片隅の風景』より)

    “Cellular phone.”

    At the time that the cherry blossoms were falling, I lost my precious friend.

    At the time that fresh greens were appearing, I lost my father.

    At the time that the summer breeze was blowing, I lost my grandmother.

    * * *

    Today, before dawn.

    I was talking on the phone with my friend who had passed away.

    I called her cellular phone.

    She picked up and said “Hello”.

    “Long time no talk!” I said.

    “How are you?” She replied.

    “I am doing well. How about you? How are you doing there?”

    “Yes, this place is pretty comfortable. I met your father. Your grandmother, too!”

    “Could you make them out easily?”

    “No problem. Both of them were fine.”

    “If I call this number, we can talk again, can’t we?”

    “Sure.”

    “Great! I’ll call you again!”

    I thought, if I could call her, I wouldn’t feel that she passed away.

    Just that we can’t meet.

    * * *

    Then I woke up.

    It was the time that dawn breaks.

    The moment that the sun was under the horizon, I was in between reality and a dream.

    I stared at my cellular phone, and held my breath.

    (OCTOBER 6, 2004)

    Sumiko

    ✏️以下は、ネットの海に沈む、小畑澄子さんのことを書いた取材記事や記録。

    互いに対する期待値を下げたら、いい関係を保てるようになった。
    (“muse new york” Vol.5, Fall, 2000)

    ◉小畑澄子さん (Sumiko Obata) 1965年埼玉県生まれ/翻訳家、ライター
    ◉ケヴィン・ヘルドマンさん (Kevin Heldman) 1965年ニューヨーク生まれ、ユダヤ系米国人/ジャーナリスト

    Obata

    クリスチャンだった祖母の影響もあり、澄子さんは中学時代から、米国の大学留学を考えていた。高校卒業後、英語学校に通う傍らアルバイトで資金を貯め、24歳の時、渡米した。

    澄子さんがケヴィンと出会ったのは、ニューヨーク州立大学に在籍中のこと。彼女が1年生の時、彼は4年生。ケヴィンが卒業した後、彼が二人の共通の友達を訪ねて、学生寮に遊びに来るようになってから親しくなり、付き合い始めるようになった。

    大学の卒業を控え、澄子さんは今後の身の振り方について悩んだ。日本に帰るべきか、米国に残るべきか。その結果、コロンビア大学の大学院に進むことにした。もちろん、ケヴィンの存在も大きかった。彼女の大学院進学と同時に、二人は一緒に暮らし始めた。

    澄子さんは大学院でアジア研究科を専攻。小人数のクラスでドナルド・キーンの講義を受けるなど、刺激的な環境の中で学んだ。一方、州立大学を卒業後、コロンビア大学のジャーナリズムスクールを卒業していたケヴィンは、昼間は肉体労働、夜はレジュメや企画書を作り、ジャーナリストとしての仕事を探す日々を送っていた。

    やがて澄子さんの大学院卒業が近づいて来た。卒業すれば、ビザが切れることはケヴィンも知っていることだった。

    「私たち、二人とも、結婚願望ゼロなんです。いや、マイナスといった方がいいくらい」

    しかしながら、このままだと澄子さんは日本へ帰らざるを得なくなる。

    「結局、ケヴィンが結婚を提案してきたんです。私のグリーンカードのために。彼には色々と事情があって、家族と縁を切っていたから、周囲の干渉は一切ありませんでした」

    結婚を決めた直接のきっかけはビザの問題だったが、もちろん、お互いを生涯のパートナーと認め合ったからこその結婚である。

    「その頃、彼が言ったんです。『料理をしている時間があれば、新聞を読め』って。その言葉を聞いたとき、ああ、この人とならやっていけるなと思いました」

    二人はシティホールで結婚の申請をし、式を挙げた。指輪はケヴィンがふざけて買った、25¢のガチャガチャで出てくるおもちゃだった。

    結婚はしたものの、澄子さんの心に引っかかっていたのは日本の家族のことだった。

    「うちは両親と姉、妹、みんな仲がよくて家族愛も強い。だから、家族に黙って結婚したことが心苦しくて……」

    もし結婚したことを告げても、これまで通り、両親は決して反対したり文句を言うことはないだろう。しかし、いくら電話では言いづらかったとはいえ、相談なしに結婚したことを知れば、悲しむに違いないと思った。

    「当時、私たちは貧しくて、日本に帰るお金がなかったんです。結局、結婚して数年後、ようやくケヴィンと一緒に帰国しました」

    帰国前、二人は話し合った。この帰国は「結婚します」という報告の帰国で、アメリカに戻って籍を入れるということにしようと。

    澄子さんの家族は二人を温かく迎えてくれた。ところが、日を追うごとにケヴィンの様子がおかしくなってきた。食欲がなくなり、夜はうなされて目を覚ます……。そもそも家族愛に恵まれていなかった彼は、澄子さんの家族の優しさに触れ、自分たちが嘘をついていることに耐えられなくなったのだ。

    滞在予定の2週間も残りわずか、2日後には日本を離れるという時になって、彼は澄子さんに訴えた。やっぱり本当のことを言おうと。

    「真実を言うにしても、彼は日本語をしゃべれないし、結局私が話さなければなりません。父は仕事に出ていたから、母と姉を部屋に呼んで。本当に緊張しました」

    「母は悲しむどころか大喜び、涙もろい姉は、感極まって泣き出すし……。最後の日、ケヴィンは人が変わったように元気になって、ご飯もバクバク食べてました。今思えば、本当にバカなことをしたと思います(笑)」

    彼と結婚して、今年で6年なる。出会ったころは、自分たちは似たもの同士だと感じていたが、時が経つにつれ、違いが見えてきた。

    「映画の趣味とか、部屋のインテリアを気にしないとか、嗜好の共通点は多いけれど、性格は違うんです。彼は生まれつきのジャーナリスト。討論が好きで、とことん話し合う。行動的でじっとしていない。一方、私は家で落ち着いている方が好きだし、多弁でもない」

    お互いが、相手を自分の基準に合わせようとすればするほど、喧嘩が増えてきた。 

    「ある日、ケヴィンに、彼の将来に対する助言を求められたんです。『どうにかなるさ』という私の考え方を、彼はどうしても受け入れられない。意見を言うからには、必ず根拠も必要。そこで口論が始まって……。何が何でも突き詰めようとする彼の姿勢に耐えられず、長いこと、口を利きませんでした」

    そして2カ月後、和解し合えなければ、別れることも覚悟の上で、彼女は自分の考えを綴ったEメールを彼に送る。毎日顔を合わせてはいたものの、直接話すのには抵抗があった。

    その日の午後、彼女の勤務先に花束が届いた。添えらたカードには、彼女が以前勤めていた会社の社長の名前が。ケヴィン流のいたずらがにじんだプレゼントだった。

    この頃から二人の関係が変わった。お互いに対する期待値の尺度を、ぐっと下げることにしたのだ。相手を自分に合わせようと多くを望むから喧嘩になる。互いの存在を必要としていながら、争うのは苦痛だ。だからこそ、過剰に干渉し合わない関係を保つことにした。

    最近は、いい精神状態で付き合えるようになってきた。喧嘩によるストレスも減った。

    「去年、二人で日本に帰った時、彼が、米国人が収監されている横須賀刑務所を取材したいというので、通訳として同行したんです。彼の熱意が所長さんに伝わり、所内を見学させてもらうなど、私自身も得難い経験ができました。彼はその記事で、この4月、ジャーナリズムの賞を受賞しました」

    お互いのやりたいことを尊重し、ほどよい距離を保ちながら、それぞれが自分の仕事や好きなことに専念できる時間を大切にする。意見を交わし合い、試行錯誤を繰り返しながら、彼らは自分たちの関係を育み続けている。

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    小畑澄子さんの死 (坂田マルハン美穂のDC&NY通信:4/12/2004)

    今年も、ワシントンDCに、桜が咲いた。

    小畑澄子さんの体調は、年末から芳しくなかった。いつも前向きだった彼女が初めて、

    「もう、万策が尽きたって感じ。正直言って、ちょっと怖い」

    と、言った。けれど、わたしたちは、今まで通り、楽しいことばかりを話した。

    彼女とわたしが出会ったのは、1996年の夏。わたしが渡米して間もない時期、1年ほど勤めてた日系出版社の、彼女は同僚だった。

    当時のわたしたちはさほど親しくもなく、だから彼女が夫ケヴィンの仕事の都合で一時期ダラスに移転していたときも、連絡を取り合うほどの仲ではなかった。

    わたしがミューズ・パブリッシングを興して独立し、彼女がダラスから戻り翻訳会社に勤め始めたころから、共通の友人らを交えて数カ月に一度、食事をするようになった。

    彼女とわたしは、同じ歳で、文章の書き手であり、学生時代にバスケットボールをやっていた、ということ以外に、ほとんど共通点はない。

    彼女は子供のころからアントニオ猪木の大ファンで、格闘技が好きだ。それからフットボールの試合も大好きで、男友達とスポーツバーで観戦することを楽しんでいた。一人でラスベガスを旅行して、ギャンブルに熱中したという話しもよく聞かされた。

    何を聞いても「あ、そう……」としか返せない話題だった。一方、

    「ねえねえ、坂田さん、ルイ・ヴィトンって、何?」

    「ティラミスって、何?」

    そんなことを尋ねる浮世離れしたところもあった。食事に頓着せず、何を食べに行っても「おいしい!」と喜んで食べた。スリムだったけれど食欲は旺盛で、そしてよく飲んだ。お酒はすごく強かった。

    共通点が少なかったにも関わらず、会話は尽きなかった。わたしはなにか通じ合うものを、彼女には感じていた。

    小畑さんは、思ったことをはっきりと言い、さっぱりとした性格で、努力家だ。勉強や仕事に一生懸命で、新聞を読むことが大好きだった。彼女には、一言では表現しがたい、独特の個性があった。

    その彼女の魅力を知るきっかけになったのは、2000年夏、『ミューズ・ニューヨーク』の「国際結婚をした日本人女性」という連載で、彼女のことを取材したときのことだ。

    小畑さんは高校卒業後、英語学校に通う傍らアルバイトで資金を貯め、24歳のとき渡米した。ニューヨーク州立大学に在学中、のちに伴侶となるケヴィンと知り合う。彼はニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人で、ジャーナリストでもある。

    その後、小畑さんはコロンビア大学の大学院を出たあと、マンハッタンの日系出版社に編集者として就職した。新聞を読むのが大好きな彼女は、『料理をしている時間があれば、新聞を読め』という彼の言葉を聞いたとき、この人となら一緒にやっていけると思った、という。

    ダウンタウンの日本料理店で寿司を食べ、ビールを飲みながら、彼女はいいことも悪いことも、まったく頓着することなく話してくれた。

    「ケヴィンは議論好きで、よく喧嘩になるのよ~。激激激口論も、何度もやった。ああいうときって、この男が世界で一番憎いって思うのよね~」

    「わかるわかるその気持ち。かわいさ余って憎さ100倍よね」

    彼女の英語力はわたしよりも遥かに上だか、それでも

    「やっぱり英語でウワッーッと言いくるめられると負けるから悔しいよね。日本語で勝負したいよね」

    わたしたちは、悔しさを分かち合った。

    そして最後に言った。

    「坂田さん。あなたが好きなように、何を書いてくれてもいいから」

    この言葉は、以降何度も、彼女から聞くことになる。彼女のことを書く機会があるたび、わたしは尋ね、彼女は同じように答えた。今まで何人もの人々を取材してきたけれど、そんなことを言う人は、彼女だけだった。わたしは、この取材以来、彼女を尊敬すべき友人として一目置いていたのだった。

    とはいえ、それ以降も数カ月に一度、顔を合わせる程度で、あとは仕事を通して翻訳の仕事を何度か頼んだりするくらいの付き合いだった。ただ、彼女はわたしの文章を愛読してくれ、ホームページやメールマガジンの感想をときどき送ってくれた。そんな彼女の律儀さを、当時は意外に思ったものだ。

    文章での彼女は、実際の口調よりも丁寧でやさしく、必ず励ましや同感を添える気遣いがあった。

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    2001年9月。テロの直後、ワシントンDCからニューヨークに戻り、精神的に混乱していたある朝。共通の友人Nさんから電話があった。小畑さんが、がんの手術のため入院したとの知らせだった。身体の変調に気づいて病院に行ったところ、末期の結腸がんであることがわかったのだという。

    電話を切った後、わたしは放心状態になった。何にも手に付かず、外に飛び出した。街を、ひたすら歩いた。歩きながら、人の生き死にのこと、自分の来し方行く末を、とめどなく考えた。もう、何が何だか、訳がわからなくなっていた。その日のわたしには、世界中が悲劇に満ちているとしか思えなかった。

    その夜、わたしはニューヨークを離れ、A男(夫)の住むワシントンDCに移ることを決意した。A男に何度も懇願されて、そのたびに大喧嘩になっても、わたしはニューヨークを離れないと主張してきた。しかしその主張が、最早、さほど重大なことに思えなかった。

    ニューヨークを離れる前、わたしは何度か小畑さんを見舞った。大手術をしたにも関わらず、驚くほどの回復力で、彼女は日常生活に戻っていた。

    わたしは、自分の父がその1年前に肺がんを発症したのをきっかけに、がんに関してさまざまに調べていたので、彼女に少しでも役に立つ情報があればと思い、これはと思うものを選んで、彼女に知らせた。

    彼女が退院して間もない頃、彼女の家へ、お見舞いに訪れた。少し緊張した心持ちでドアを開けると、思っていた以上に顔色がよく、元気な声の彼女が出迎えてくれた。彼女が敬愛するアントニオ猪木の顔が大きくプリントされたTシャツを着ている。部屋には千羽鶴が飾られ、「闘魂!」と大きく書かれたリボンが添えられていた。

    彼女はその夜、手術に至るまでの経緯をゆっくりと話してくれた。彼女はそれまで、タバコを吸い、お酒を飲み、食生活もデリバリーの外食中心で、「栄養のバランスなんて考えたこともなかった」というくらい健康に無頓着な生活をしていた。その分、彼女の情熱は、仕事や趣味に傾けられていた。

    そもそも身体が強かったこともあり、きついときにもかなり無理をしていたようだ。病院に行くのも、薬を飲むもの嫌いで、体調が悪いときも、極力、薬を避けて気力で治してきたという。

    だから、9月に入ってまもなく、少しずつお腹が張ってきたときには「どうしたんだろう」と思う程度で深刻に考えなかった。妊娠していないことはわかっていたから、おかしいと思ったものの、日増しに腹部が膨らんでいく。しかし痛みはない。食欲もあるし便通もいつも通りだった。

    あとから気づいたことと言えば、その前月に生理が2回あったということくらいで、それ以外は、がんを患っているなどと思わせる予兆は全くなかったという。

    彼女の身体の異常に気づいたケヴィンから「とにかくすぐに病院に行って来い」と言われ、ひどく忙しい最中だったにも関わらず、時間を見つけてしぶしぶ病院へ行った。お腹の張りが気になりだしてから2週間目のことだ。

    最初に訪れた大病院で、即刻、詳しい検査を促される。「今日は忙しいからこの次に……」という彼女を、ドクターは厳しい口調でたしなめ、事態の深刻さを告げた。結局、その日のうちに検査を受け、思いもよらなかった結果を聞くこととなる。

    ドクターいわく、お腹の膨らみは腫瘍によるもので、すぐにも手術が必要だとのこと。心の準備もなにもない、面と向かっての告知である。まさか自分ががんであるなどとは予想もしていなかったから、たいへんな衝撃だった。

    とはいえ、まだそのときは、ドクターの言葉が本当なのか、半信半疑だった。セカンド・オピニオンを得た方がいいだろうと、その直後にケヴィンと2人でメモリアル・スローン・ケタリングというがん専門の大病院を訪れた。やはり腫瘍に間違いなかった。そして数日後に手術を受けた。

    施術したドクターに、

    「君のお腹にはフットボールとバスケットボールほどの大きい腫瘍があった」

    と言われた。

    手術の際、いくつかの臓器とその一部を切除した。転移しているがんについては、通院しながらキモセラピー(抗がん剤による化学療法)により治療することになった。

    日本では、抗がん剤を投与されているがん患者は、継続的に病院に入院するが、米国は医療費が高いためか、あるいは根本的にシステムが違うのか、手術を終えた患者は即退院する。

    外科内科手術、いずれの入院期間も日本のそれより著しく短い。出産の際も、特に異常がなければ、翌日か翌々日には退院させられるという。

    従って、キモセラピーもまた、通院して受けるのが一般的だ。また白血球を上げるための定期的な注射は、本人が自宅で打つように指導される。

    「わたし、日本にいたら、ずっと入院させられる状況なんだよね。とてもじゃないけど、耐えられない。考えただけで気が滅入ってくる」

    副作用があり、体調の悪い日はあるものの、彼女はそれまで通り会社へも通勤していた。

    米国の、明るく清潔感にあふれた病院にですら、彼女はいられないというのだから、暗くてどんよりした古い病棟の、6人部屋に入院していた父が、どれほど憂鬱だったか、察せられる。

    「今回、病気になったことでね、ほんっとに思ったんだけど……。こんなに家族とか友達がありがたいものとは、思わなかった」

    思いを込めた口調で小畑さんはそういいながら、いくつかのノートやメモを私に示してくれた。彼女のお母さんが、「健康にいい料理」のレシピを書き連ねた、それは手書きのノートだった。表紙に「すみ子」と大書きされている。

    キッチンの壁には、彼女のお姉さんによる「食のアドバイス」が貼られている。がんにいい食べ物やその効能など、一つ一つにお姉さんからのコメントが添えられている。小畑さんの姪の絵も壁にある。

    手術後、家族が日本から来た折に、キッチン用品や調味料も買いそろえてくれたという。

    「今までは塩とこしょうと醤油しかなかったんだけど、今はみりんも味噌もあるのよ!」

    笑いながら彼女は言った。

    「私が料理をするなんて、ほんと信じられない」

    そう言いながら、その日彼女は、訪れたわたしたち友人のために、讃岐うどんをゆでてくれ、麻婆豆腐を作ってくれた。できあいの「麻婆豆腐の素」を使うのじゃなく、ちゃんと一から作ってくれたのだ。とてもおいしかった。

    やがてケヴィンが帰ってきた。

    「ハグしないの? ハグ? キスは~?」

    不躾なことを言って冷やかすわたしに、

    「もう、ちょっとやめてよ~。わたし、そういうの、全然、苦手なんだから」

    と小畑さんは言う。

    ケヴィンは部屋に入るなり、彼女に紙袋を手渡した。中にはきれいな色のスカーフが3枚入っていた。副作用で髪が抜け始めた彼女へのお土産だった。

    その日わたしは初めて、ケヴィンとゆっくり話した。彼らは互いに互いの仕事を尊重し、いわば「同志」のような絆を持つ二人だが、今回のことで、彼が相当に、彼女のことに心を砕いていることが、察せられた。

    人の生命力というのは、医学的な側面だけからは推測することができない、さまざまな要素が絡み合って、決定づけられるものではないかと思う。なにしろ「笑うこと」が、がん細胞の増加を阻むというデータもあるくらいなのだから。

    父だって、発病した直後は、ドクターから「2年以上生存する確率は限りなくゼロ」だと言われた。けれど、父は負けるもんかと、4年経った今も闘い続けている。

    小畑さんのことだから、徐々に生活の在り方を改善し、自分なりにうまく病と向き合いながら、これからも生き生きと暮らしていくのだろう。わたしは、そう信じた。

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    2002年1月。わたしはワシントンDCに移った。それからは、ニューヨークに行くたびに他の友人も交えて彼女に会った。むしろ、ニューヨークにいたころよりも、頻繁に合うようになっていた。

    しかし、彼女のがんは容赦なく、その春、小脳にまでも転移した。手術は幸いうまくいき、がんを切除することに成功した。ホルモン剤の副作用で、顔が丸く太ったことを気にしていたけれど、7月15日の誕生日の翌日、彼女は元気そうな顔で約束のレストランに現れた。

    食欲も旺盛で、本当に手術をしたばかりだとは思えないほど元気そうだった。

    「ねえねえ、昨日、ケヴィンがどこに連れていってくれたと思う? なだ万よ、なだ万! わたしもう、びっくりしちゃった」

    普段は二人で外食をすることなどまったくないと彼女は常々言っていた。そんな彼が、彼女の誕生日を祝って、日系ホテルにある高級日本食レストランに予約を入れて置いてくれたのだという。

    「わたしが病気になってから、気味が悪いくらいやさしいんだよね~」

    そう言いながらも、彼女はとてもうれしそうだった。

    がんは、発症以来、常に彼女の身体のなかにあった。だから、次々に、新しい薬を試した。抗がん剤は数回投与すると、身体に免疫ができるため、効果がなくなってしまう。まるでいたちごっこのような治療法なのだ。

    次々に襲いかかる副作用にも耐え、彼女は普通通りの生活を続けた。

    「わたし、スローン・ケタリングの結腸がんの患者の中で、2番の成績って言われたの。わたしよりがんばってる男性がいるらしいのよ~。悔しいわ!」

    彼女は冗談交じりでそう言った。スローン・ケタリングとは、米国で最も優れたがん専門の大病院で、数多くの患者を抱えている。

    彼女はわたしのホームページを、いつも隅々まで読んでくれていた。そして、わたしが日記に記す、A男のボケネタをこよなく愛していた。

    「昨日の日記には笑わせてもらったわ」

    彼女は律儀に、電子メールで感想を送ってくれるのだった。

    また、わたしが綴る大ざっぱな「食の記録」を読んでは、

    「私みたいに案の浮かばない人間にとって、とても参考になります。ありがとう」

    「今度、あのワッフルミックスの素、探してみたいと思っている」

    と、コメントが届くのだった。

    わたしが『街の灯』を出版したとき、彼女は真っ先に感想を送ってきてくれた。心に残った一話一話に対し、自分の感想を盛り込んだ、やはり丁寧なメールだった。アマゾンの書評にも、彼女の言葉が残っている。

    clip 著者と共にNYを感じる 2002/11/6 Sumiko

    さて、街の灯、拝読しました。正直、すごーーくよかった。とても質の良い読み物で、久しぶりに読後にいろいろと考えさせてもらいました。ひとつひとつのエピソードが、何気ないんだけど、ただの「出来事」に終わらず、坂田さんの気持ちとか考えが確実に挿入されていて、読者もあなたの「感情」と一緒に、その場の状況を共有できる感じ。それに、ひとつの章を読み終わるごとに、自分の生活とか今ある状態と、坂田さんの経験を比較するチャンスも与えてくれるような文章だった。

    今回もロングアイランドに行った時に、ふらっとその土地のダイナーみたいな所に入って、期待以上の食事をしたいなと思ったり(ギリシャ旅情)、洗濯物をたたんでいるときにシーツをたたむ老人を思い浮かべたり(シーツをたたむ二人)。私も日本語をうまく話せるキャブドライバーに会ったし(あなたなしでは)、タクシーに乗るたびにその人の「プロ具合」を評定している(プロの仕事)。

    「寒くても温かい」は大好き。私も読みながら、坂田さんとまったく同じ感想を持っていた(子供も一緒に笑ってくれるような子だったらいいなと)。学生時代にウエイトレスをしていたときは、外国人の寿司の食べ方に圧倒されたこともあるし、バスボーイの人たちと一緒に食事して、彼らのくったくのなさに心が洗われたりしたことも思い出した(しっかり、ご飯)。他にも好きな章はたくさんあるけれど、これは友人としてではなく、一読者として、良い本を読ませてもらってありがとう、と言いたいわ。これからも、どんどんと執筆を続けてくださいね。

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    2003年春。ちょうど桜の花が満開のころ、小畑さんはワシントンDCにやって来た。運転が好きな彼女は、自分の四輪駆動車に乗って、マンハッタンから4時間かけて来た。

    訪問の目的は、DCで行われる結腸がんのカンファレンスに出席することだったが、滞在中は我が家に泊まり、週末は郊外に一泊旅行をする予定でいた。

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    わたしたちは、タイダル・ベイスンの桜を見に行った。

    長生きしている桜の木から「気」をもらおうと、二人で大木にしがみついたりもした。

    一年のうちで、この街が一番美しい数日間を、彼女と過ごせたことは、真にうれしいことだった。

    週末には、アパラチアン山脈のふもと、シェナンドア渓谷にある温泉宿を目指して、彼女の車でドライブした。

    青空が広がる、天気のいい午後だった。

    この宿は、米国人男性と日本人女性が経営しており、美しい山並みを見晴す日本的な展望風呂があるのだ。

    心地よい温泉に浸かり、浴衣を着て、夜更けまでワインを飲みつつ、おやつを食べつつ、語り合った。

    翌朝は、和風の朝食が用意されていた。清らかな湧き水で作られた味噌汁、サーモンのグリル、切り干し大根やヒジキの煮付け、新鮮な卵での卵かけごはん……。二人して、朝からたっぷりとご飯を食べた。

    この次は、夫たちを連れてこようね。Cさん(小畑さんの親しい友人)と彼女のボーイフレンドも誘おうよ。できれば夏がいいね。バーベキューをしようね。わたしたちは約束した。

    しかし、その直後、再び脳にがんが転移していることがわかり、またもや手術をせねばならなくなった。

    6月には、わたしたちの共通の友人Nさんが、フランスで結婚式を挙げることになっていて、小畑さんは出席する予定だった。Nさんと小畑さんは翻訳会社の同僚で、二人はとても仲が良かったのだ。

    彼女は、フランスに行けなかったことを、本当に悔しがっていた。

    「プレゼントも買ったのに。Nちゃんのウエディング姿を見たかった……」

    彼女は何度も言った。

    インド人一家が来るため、そもそもから出席できなかったわたしに、

    「今度、秋ごろになったら、一緒にフランスに行こうよ」

    と、彼女は言った。

    夏が過ぎて、秋になっても、彼女の体調は思わしくなかった。がんによる痛みが彼女の身体を襲い、けれど、それでも、彼女は会社にも行って仕事をしていた。

    「病気になって初めて、お先まっくら状態。でも、どうしても負けたくないから、闘魂と気合いでがんばるぞ!」

    そんなメールが届いた。

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    彼女と最後に食事をしたのは、わたしが学校に通い始める直前にニューヨークへ行った、去年の夏のことだ。

    ミッドタウンの寿司屋のカウンターで、わたしたちは、食べて、語った。彼女は、インド人一家が訪れたときのエピソードを聞きたがり、聞くたびに笑い、笑う度に

    「笑うと、お腹のがんが痛いから、笑わせないで」

    といいながら、笑った。

    わたしは、本で読んだ「霊気」の方法に従い、彼女に気を送ったりした。彼女はそういう非科学的なことを一切信じない人だったけれど、わたしが彼女の背中に両手を当てると、

    「うわあ、気持ちいい。あなたの手、すごく熱く感じる。その手、持って帰りたい」

    と言った。

    わたしは、彼女が病気だから、わたしが彼女に同情したり、親切なのだと思われるのがいやだった。わたしは彼女の人柄に惚れていて、その彼女が病に直面しているのを、ただ、見過ごすことはできなかった。

    でも、わたしにせよ、多分彼女にせよ、粘着的な付き合いをするタイプでもなかったから、いくら心配でも、一定の距離をおいておくのがいいだろうとも思った。

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    去年の年末あたりから、彼女の病状は悪化していた。わたしがインドに行く前も、最近はかなり調子が悪いとのメールが届いた。それでも彼女は、わたしのホームページを読んでるわよ、と感想を添えることを忘れなかった。

    わたしはだんだん、せっぱ詰まった気持ちになっていた。何かをせずにはいられなかった。インドの旅先からは、ホームページのかわりに、彼女にたくさんの絵はがきを送った。

    「ほんっと、いつもごめんね~。わたしがしてもらうばっかりで。ありがとう」

    わたしは、してあげているわけじゃない。彼女は、わたしに色々な、目に見えない大切なことを気づかせてくれている、わたしは目に見えることをしているだけだ。わたしはそのことを、うまく彼女に伝えることができていただろうか。

    わたしが何かをすることで、むしろ彼女が気を遣うことになってもいけないと思った。けれど、何かをせずにはいられなかった。

    彼女は、わたしと電話をするとき、必ずわたしの父の病状を尋ねた。それはここ数年の、彼女の変わらぬ姿勢だった。彼女の方が多分父よりも、かなり病状が悪いのに、

    入退院を繰り返している父を察し、

    「日本は入院しなきゃだめだからたいへんよね」

    と父を案じてくれた。

    父が再発するたび、

    「わたしの場合は、再発もなにも、ずーっとがんが身体の中にある状態でも元気なんだから、お父さまにも大丈夫だってお伝えしてね」

    と、励ましてくれた。

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    今年に入ってから、小畑さんの調子が著しく悪くなり、一時、入院した。コンピュータに向かっていられなくなったと連絡があった。

    「今回はしばらく会社を休んで、治療に専念しようと思う」と彼女は言った。

    「もうすぐ別の新薬が承認されるから、それに賭けてみる」とも言った。

    ある日、ケヴィンから、彼女が入院したとのメールが届いた。1月27日、マンハッタンに雪が舞い降る日、わたしは彼女の病院を見舞った。

    わたしが訪れたとき、彼女は一日で一番調子のいい時間だったらしく、モルヒネの点滴を受けていながらも、いつもとほとんど変わらない知的で快活な口調で、自分の状況を客観的に語り、互いの近況を報告しあった。

    わたしがインド移住を目論んでいることを語ると、がんばってねと励ましてくれた。

    彼女のがんは、もう全身に転移していて、歩くのさえ辛い状況だったけれど、それでも食事をしっかり取り、読書をし、自分の病状を客観的に捉えて、なんとしても生き延びようと、その方策を考えていた。

    彼女のベッドの傍らで休憩しているケヴィンが痛々しかった。

    わたしがインド旅日記をホームページに載せたから印刷して送るよ、と言ったら、

    「元気になったら、コンピュータで自力で読むから、送らないで!」と返した。

    ワシントンDCに戻ってきたら、小畑さんからお見舞いのお礼の電話が入っていた。メッセージの最後に彼女はこう言った。

    「今日のニューヨークタイムズにインドの記事が出てたんだけど、そこにすごくきれいなインド人女性たちの写真が載ってたのよ。あなた、インドに行くのはいいけど、こんなきれいな人たちとコンピート(張り合う)しなきゃならないなんて、たいへんね~。がんばってね。また電話します」

    彼女が自宅療養に入ってからは、しばしば連絡を取り合うようになった。彼女は、今回だけは、かなり堪えていると、今まで口にしなかった悲観的なことを言った。わたしはそういうとき、何を言えばいいのかわからなくて、

    「春になったら、きっと調子が良くなるよ」

    などと、気休めのようなことしか言えなかった。もうすぐ春が来るから。冬が過ぎたら、きっと体調もよくなるだろうから、また一緒に桜を見に行こう、そして温泉に行こう。

    彼女は、いつも、周りに気を遣っていた。日本の家族を心配させることを悔やみ、ケヴィンに迷惑をかけていると悔やんだ。わたしのせいで、彼が自分のやりたいことをできなくなるのは申し訳ないと言った。わたしは大丈夫だから、仕事なり遊びなり、行ってほしいのだとも言った。

    同時に、彼女を献身的に世話をするケヴィンに、深い感謝と愛を感じていることが察せられた。

    ケヴィンはとても繊細で難しい人で、家族との折り合いも悪くて、彼をわかってあげられる真の友達はわたししかいないから、わたしがいなくなるわけにはいかないのだ、と、いつも彼女は言った。

    わたしは、弱音も吐かず、周りのことを第一に考える彼女の人間性に、心底、頭の下がる思いだった。どうして、彼女はこんなに毅然としていられるのだろう。

    2月の下旬だったか、わたしは自分が診てもらった医者の心ない言葉に憤った旨を話した。すると彼女は言った。彼女も、つい最近、スローン・ケタリングのドクターに、ひどいことを言われたのだと。どんなことでもあっけらかんと話す彼女が、

    「ごめん。内容は、今はちょっと話せる心境じゃない」

    と言った。

    彼女は、色々な事柄と闘っているのだと言うことを改めて知った。

    2月中旬。わたしがA男と、週末、温泉に行くことを知ると、

    「ああ、わたしも行きたい! 絶対に一緒に行こうね」と彼女は力強く言った。

    2月末、A男の出張に伴って出かけたロスのホテルのカフェから電話をしたときも、

    「あなた、いいご身分ね~。うらやましいわ~。5分でも10分でもいいから、今のあなたの時間を、わたしにちょうだい!」笑いながら、彼女はそう言った。

    わたしは本当に、わたしのこの穏やかな時間を、彼女に分けてあげたかった。

    わたしたちは、いつも新しい抗がん剤など新薬の話や、代替治療についての話しもした。鍼やリフレクソロジーが痛みを緩和することもあるからと、最近はセラピストに来てもらっているとも言っていた。

    今年に入ってから会社に一度も行っておらず、有給休暇をもらっていることに罪悪感をも覚えていた。

    「あなたは今まで、どんなにきつくても会社に行って、会社に貢献してきたんだから、本当に辛いときくらい、仕事のことは忘れて、自分が休憩することに専念した方がいいわよ。ともかく、無理をしないで」

    無理をしないで。ゆっくりして。おいしいものを食べて。また遊びに行こう。

    同じような台詞を、話の合間に、何度も繰り返した。わたしは彼女に、もはや何を言っていいのか、わからなかった。

    そのころから、彼女は近くに住んでいる友人のCさんに、夕食を作ってもらうことを頼んでいた。

    「Cは、ああ見えても、家庭的で料理がうまいのよ。すごく助かってる」

    年下の友人Cさんのことを、まるで妹のことを話すみたいに、彼女は話してくれた。自分とはまったく異なるタイプの性格なのに、とても気が合うのだ、とも言った。

    小畑さんにはまた、仕事を通して出会ったという友人Tさんがいた。彼女はボルチモアに住む人で、実際二人は会ったことがなかったのだが、電話やメールのやりとりをよくしていたらしい。

    Tさんが、常々小畑さんのことを気にかけ、メールやファックスを送ったり、郵便で彼女が興味を持つような記事を送ったり、生活に便利そうな何かを送ったり、ともかく、本当にこまやかに彼女のことを気にかけてくれているのだと感謝していた。

    「わたし、Tさんとは、会ったことがないけれど、わたしたちにとって天使みたいな人だねってケヴィンと話してたんだよ」

    Tさんとわたしは面識はなかったが、あるとき電話で話す機会があった。小畑さんは、彼女には、わたしには話さなかった不安を、伝えているようだった。

    「わたしとは会ったことがないから、むしろ本音をいいやすいのかもしれません」

    Tさんは言った。

    Tさんの話を聞いて、わたしは少し安心した。いつもいつも、周りを気にするばかりで決して弱音を吐かなかった小畑さんが、いったい、心の苦しみをどうやって吐き出していたのだろうと、そのことがとても気になっていたからだ。

    わたしはだから今まで通り、「もしも」の話はせず、明るく楽しい、前向きな話だけをしていようと思った。

    3月9日。ボストンから電話をしたとき、彼女は、ホスピス治療に入ったと言った。ホスピス治療に入ったけれど、わたしはまだ、諦めてないから、とも言った。この間認可されたばかりの、新しい抗がん剤を使える可能性があるかもしれない、とも言った。

    最早、コンピュータに向かえない彼女に、わたしは膨大なインド旅日記を、写真も見られるようカラープリントして郵送していた。

    「インド旅日記を、今少しずつ読んでいるよ、楽しんでるわ。ありがとう」

    一気に読むのは疲れるってこともあるけれど、でもすぐに読み終わるのはつまらないから、ゆっくり読んでいるのだ、と彼女は言った。

    彼女は、自宅と病院を行き来してのホスピス治療を始めた。

    それからは、電話を控え、ファックスを送るだけにした。

    3月16日。その日、どうしても気になって電話をした。電話にはケヴィンが出た。

    「彼女の具合が悪ければ、かわらなくていいから」

    わたしはそう言ったが、ケヴィンは、

    「大丈夫。今、Sumi、起きてるから」

    と言って、電話をかわった。でも、多分彼女はかなり調子が悪かったのだろう、

    「ごめん。あとでコールバックするね」

    そう言った。それが、わたしが聞いた、小畑さんの最後の声だった。

    もう、彼女とは電話をできないかもしれない。わたしが電話をしたところで、何もできないことは、わかっていた。周りには手伝ってくれる人もいるだろうし、わたしが遠くから案じたところで力になることはできない。

    その後、小畑さんを見舞った共通の友人から、彼女が痛みにさいなまれ、覚醒している時間が短くなっているとのことを、聞いた。

    どんなに痛みにさいなまれていても、小畑さんも、ケヴィンも、少しでも長く、一緒にいたいと思っているに違いないのだと思うと、やりきれなかった。

    一方、わたしの父の肺がんもまた、年末あたりから活動を再開していた。病院からは即入院し、また抗がん剤治療を受けるように勧められた。父は身体の健康な細胞までも破壊してしまう抗がん剤の治療を拒否し、東洋医学や民間医療を融合した統合治療を施してくれるクリニックに通い始めた。

    そのうちにも、がんは父の身体を攻撃し、3月に入ってからは、父は高熱と猛烈な咳とで、著しく体力を落としていた。電話をするたび、母の声の向こうで、父が激しく咳込むのが聞こえる。電話越しで聞いているだけでも胸が迫るのに、朝から晩まで、咳こむ声を聞き続けている母の心労を思った。

    離れていると、何もできない。

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    そして3月末。春が来て、町の至るところで桜が次々に開いた。タイダル・ベイスンの桜を見ても、カテドラルの桜を見ても、去年、小畑さんとここに来たことを思い出した。一緒に見られないことが残念でならなかった。

    そして4月6日。わたしは久しぶりに集中して長い原稿を書いたせいか、全身が凝っていたので、近所に住む指圧・マッサージの日本人セラピストのところへ電話をした。あいにくその日は予約がいっぱいだったのだが、午後になりキャンセルが出たとの電話が入り、わたしは出かけた。

    青空が澄み渡る、少し肌寒い夕暮れ時。早めに家を出て、散り始めた桜を眺めつつ、再来週にはインド旅行だというのに、なぜかやるせない気持ちでゆっくりと散歩しながら、彼女の家に向かう途中のことだ。

    このあたりは緑の広々とした芝生の空き地や庭が点在し、いつもリスたちが走り回っている。リスは普通、人間が近寄ると一目散に逃げるのだが、ある一匹のリスだけが、木の実を食べながらわたしの方をじっと見ている。

    わたしがどんどん近づいていっても、逃げようともしない。逃げようともしないどころか、わたしに近づいてくる。このあたりのリスは木の実が潤沢にあり、人間に餌を請う必要はない。第一、そのリスは、食事中だったのだ。

    なのに、わたしの足許まで来ると、立ち止まったわたしの周りをクルクルと回り、じっとこちらを見つめている。わたしはカメラを持ち歩いていて、どんな動物もたいてい、カメラに気づくと慌てて逃げるのに、そのリスはむしろ、写真を撮られることを好んでいるかのように、カメラ目線さえ送ってきた。

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    いつまでたっても逃げようとしないので、変なリス、と思いながら、わたしは歩き始めたのだが、リスはわたしの方をみて、じっと立ちすくみ、いつまでも見送ってくれている。何度か振り返っても、まだ立ち上がったまま、こちらを見ている。

    わたしはその健気な愛らしい姿に不思議な思いで、

    「バイバイ!」とリスに向かって手を振りながら声をかけたのだった。

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    その翌日。わたしは朝から、小畑さんのことが気になって気になって仕方なかった。でも、ケヴィンに直接電話をするのは怖かった。午後になり、しかし、胸騒ぎを抑えることができず、仕事に集中できない。もしかして、という気がしてならない。

    わたしはCさんの携帯に電話をした。Cさんはすぐに電話に出た。彼女の声は硬直していた。彼女はつい、数時間前に、その知らせを受けたという。

    小畑さんが今日、4月7日の早朝3時に、息を引き取ったと。

    わたしは呆然としながら、虫の知らせって、ほんとうにあるんだ。と思った。

    わたしは、何にも手を付けることができず、コンピュータに向かった。そして、今まで彼女から届いたたくさんのメールを、一つずつ開いて、一つずつ、読んだ。こうして読み返すと、改めて、彼女の大らかな性格の裏にある、律儀さ、繊細さ、思いやりが、感じ取れた。

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    夕方になって、小畑さんのためにキャンドルに灯をともし、白檀のお線香を焚いた。

    やがてA男が帰宅し、玄関のドアを開け、キャンドルを見るなり、言った。

    「わお! ロマンティック!」

    このボケを、小畑さんに聞かせたいと思った。

    数時間後、日本の母から電話があった。久しぶりに晴れ晴れとした声だった。

    父が今朝は、約一カ月ぶりに、咳をせず、静かに、穏やかに、目覚めたというのだ。こんなに気分のいい朝を迎えられたのは本当に久しぶりだから、美穂にも伝えようと思って電話をしたのだと言ってくれた。

    わたしは小畑さんのことを母には言えず、よかったね、と言って、電話を切った。翌日、父はクリニックに行き、「峠を越しましたね」と言われたという。

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    4月7日。奇しくも去年のその日、わたしは小畑さんと共に過ごし、桜を見た。

    わたしは、彼女がどこかに行ってしまう前に、このワシントンDCにも立ち寄ってくれたのではないかと思う。必ず行くから、と彼女は言っていたから、散る間際の、日本から来た桜を見に来たのだと思う。

    これを言うと、A男は哀れむような顔をして、「それはないと思うよ」とわたしを諫めたけれど、自分でもそれは単なる偶然だとは思うけれど、笑われるのを承知で、でも、敢えて書く。

    あの日、小畑さんはリスに姿を借りて、わたしのところにもお別れを言いに来てくれたのではないだろうかと。

    そして、アメリカ大陸を横切って、太平洋を横断して、日本に帰って、ひょっとすると福岡にも立ち寄って、わたしの父のところに「魔法の粉」をパラパラと振りかけてくれたのかもしれないと。

    そんなことはこじつけだということも、自己満足な思いこみだということもわかっている。ただ、彼女は律儀な人だから、そうやって、自分と関わりのあった人たちのもとに、何かをもたらして、去っていったのに違いないと、わたしは思いたいのだ。

    短い付き合いだったにも関わらず、しばしば顔を合わせていたわけではなかったにも関わらず、次々に思い出があふれてきて、この文章も、いつまでも終わらない。

    ケヴィンや日本のご家族の心中を想像するに、胸が押しつぶされる思いだ。

    わたしの悲しみは、彼らの悲しみの比ではない。

    そして小畑さん自身が、いかに無念だったか。それを思うと、言葉がない。

    「坂田さん。あなたが好きなように、何を書いてくれてもいいから」

    彼女の言葉を受けて、だから今日、わたしはこうして、心おきなく、彼女のことを書かせてもらった。

    彼女から学んだことは、今、ここで書けるようなささやかなものではない。

    小畑澄子さん、いろいろと、ありがとう。

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    インドやネパールで「春の到来」を祝するヒンドゥー教の祝祭日ホーリー。今年は今日から明日にかけて。特に北インドで盛大に行われるこの祭り、この日ばかりは誰彼構わず、色粉や色粉を溶いた水を人々にかけあう。

    豊作を祝う祭りという説もあれば、魔除け説あり、クリシュナと恋人ラーダという女神にまつわる伝説がルーツとの説もある。

    我が夫は北インドのデリー出身ということもあり、ホーリーの際には、粉をかけ合わねば気がすまない性分だった。子どもや孫がいるならまだしも、夫婦二人で庭に出て、粉を掛け合う図は、いかにも痛い。痛いが、一応、やる。

    昨年は、義父ロメイシュ・パパが他界した直後で、とても祝う気分ではなかった。そして今年。いつもならドライヴァーに「安全な色粉」を買ってくるよう頼んでいる夫が、今年は頼まぬまま。

    ゆえに妻は金曜の夜、人畜無害の色粉をアマゾンで注文し、昨日配達してもらっていたのだった。ちなみに粉のかけ合いは、明日がメインだが、我が家は日曜日の本日実施した。

    人間の怪しい行動を、怪訝な顔で見つめる猫ズにも、ほんの少し、粉をつける。←あとで拭きました

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    四季の移ろい緩やかな南天竺デカン高原に、再び盛夏が巡り来る。

    木漏れ日の揺らぎ茫然と見つめ、猫らも人間らも、気怠く緩やかな土曜の午後。

    露店の黄金色マンゴー、山と積まれたスイカ、喧騒の路傍を彩り、

    街を覆う樹々は町の随所で、その花を咲かせる。

    桜の如く薄桃色に中空を彩るはピンク・テコマ。

    薄紫のジャカランダもやさしく青空に映える。

    やがて、真紅のグルモハル、火焔樹の花が、中空を燃やしながら咲くだろう。

    思いを馳せさえ、しなければ。

    目先の日々の営みに、専心してさえいれば。

    過不足なき日々をやり過ごせるはずなのに。

    なぜ、どうして、どうすれば、

    の問いを浮かばせては消し、浮かばせては消す。

    騙し騙し、この先、どこへ向かって行くだろう。

    生きている限りにおいては、がむしゃらに、希求せよ。

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    わたしにとって、バンガロールで最もお気に入りの場所が、またひとつ増えた。ここは間違いなく、これからもしばしば、訪れることになるだろう。

    貧困層支援の慈善団体創設者であり、実業家であり、ソーシャルアントレプレナーでもある友人マノージ。彼が20年以上に亘って構築しているソーシャル・エンタープライズのARAKU COFFEEが、パリのマレ地区に次いで、インド1号店を、バンガロールのインディラナガールにオープンした。

    先月、身近な関係者だけが招待されてのソフト・オープニングのパーティに足を運んだことはすでに記したが、昨日、オープン後、初めて訪れた。

    マノージが手掛けるビジネスのひとつ、ARAKU COFFEEについては、昨年から何度か紹介してきた。『ミューズ・チャリティフェスト2020』のために、マノージが撮り下ろしてくれた動画をご覧になった方もいるだろう。

    南インドのアンドラ・プラデーシュ州、ヴィシャカパトナムにほど近い「アラク・ヴァレー」という風光明媚な場所にて、コーヒー農家を支援しつつ、極めて良質なコーヒーを生産するARAKU COFFEE。

    良質のコーヒーの生産、農家支援、職業訓練、雇用機会の提供、環境保護、オーガニックの食材、国産品によるインテリア、グローバル・スタンダードの品質管理、トップクラスのマネジメント……。

    一方で、日本を含むコーヒー器具類をも販売するなど、そのディスプレイも上品かつ心地よい。一隅にはライブラリーもあるなど、たいへんな読書家でもあるマノージのセンスが随所に鏤(ちりば)められている。

    夫とマノージとは、グローバル組織であるアスペン・インスティテュートを通して出会った。マノージは、夫が属していたグループのモデレーターだったこともあり、夫は彼の人柄や生き様はもちろん、バイタリティ溢れる行動力に、強い敬意を抱いている。

    🌱The Aspen Institute
    https://www.aspeninstitute.org/

    ARAKUは、そのビジネスモデルそのものが特筆すべきで、Social Enterprise(社会問題解決を目的として収益事業に取り組む事業体)としても知られており、インドのメディアでもしばしば取り上げられている。

    なお、ボードメンバーには、バンガロール拠点IT大手インフォシスのセナパティ・ゴパラクリシュナンや、マヒンドラ・グループ(財閥)会長のアナンド・マヒンドラらも名を連ねる。

    ビジネスモデルに関心のある方には、ぜひARAKU COFFEEサイトのEXPLOREの項目を見てほしい。また、複数メディアに紹介されているので、以下、リンクをはっておく。もちろん、コーヒーの味も試してほしい。個人的にはMICRO CLIMATEが好きだが、いろいろ試されることをお勧めする。

    ❤️Naandi Foundation
    https://www.naandi.org/

    ❤️ARAKU COFFEE
    https://www.arakucoffee.in/

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    📚First look: All you need to know about Araku’s first café in India
    お店の紹介は、このVOGUE INDIA にて、とてもすてきに紹介されている。ビジネスモデル含め、関心のある方は、ぜひご覧ください。
    https://www.vogue.in/culture-and-living/content/araku-coffee-first-cafe-in-india-bengaluru

    📚New in Bengaluru: ARAKU Café raises the bar for coffee shops in the country
    https://www.cntraveller.in/story/new-in-bengaluru-indiranagar-araku-cafe-raises-the-bar-for-coffee-shops-in-the-country/#s-cust0

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    ⇧DARK & STORMY/ コールドブリュー・コーヒーに、ほのかなスパイスとシトラスを加え、炭酸水で割ったコールドドリンク。さっぱりと、しかしコーヒーの香りがほどよく、食事にも合う。

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    ⇧開店から1週間足らず。すでに若い世代を中心としたゲストで賑わっていた。

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    ⇧上階は、コーヒーのテイスティングが楽しめるコーナーがあり、ミーティングルームなど、パーティなど貸切にも対応できるスペースも備えている。

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    ⇧つい長居をしてしまいたくなるライブラリーのコーナー。ひとりで外食をすることが多いわたしにとって、このような空間は、本当に幸せ。

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    ⇧食事もさることながら、コーヒー専門店につき、コーヒー関連のメニューが非常に充実している。全種類を試してみたくなる。

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    ⇧これは1カ月前のソフトオープニングのときの写真。右下の女性は、コーヒーのクオリティの鍵を握っている米国人のコーヒースペシャリスト、マリア。

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    ⇧こちらも1カ月前の写真。料理やスイーツは、ムンバイで、今、最も人気のあるレストランMASQUEを経営する女性起業家、アディティの監修によるもの。ヴォーグのサイトに写っている右端の女性だ。シェフはかつてMASQUEで働いていたラーフル。コーヒー風味のソフトクリームは甘すぎず、ほどよいミルクのコクとコーヒーの香りがいい塩梅。普段はブラックで飲むのだが、甘みとベリーの風味が個性的なBLACK FORESTも、とてもおいしかった。

    🍽Masque Restaurant
    https://www.masquerestaurant.com/

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    ⇧こちらは昨夜の写真。一人で訪れたから、あまり食べられないと伝えるのだが、シェフのラーフルが前菜からデザートまで、勧めてくれる。ビーツのサラダとマスカルポーネのムース風。まるでおやつのようでもあり。新鮮なアレギュラ・サラダは独自の近郊農家で栽培しているとのこと。敢えてエビの頭をつけているというグリルも、わたし好みの味。なにより印象的だったのは、この中東のデザート。ぜひ試してみて欲しい。

     

    ↓ ↓ 以下は1カ月前の記録より抜粋 ↓ ↓ 

    スタッフの女性に誘われ、店舗奥の、ライブラリーにて。タイプライターを前に、一人の男性が座っている。なんというのだろう、彼のような人を。

    人の言葉から、詩を紡ぐ人。

    「あなたの人生で大切なことと、そのエピソードを話してください」と尋ねられたので、コーヒーのソフトクリームを試食しながら、

    「旅」

    と答えた。

    20歳のときに初めてロサンゼルス空港に降り立った時に人生が変わったこと、その後ニューヨークに渡って夫と出会ったこと。これまで無数の土地を旅してきたけれど、インドにたどりついたこと。そして今もまだ、毎日が旅の途中なのだということを、話した。

    そうしたら、彼は丁寧に、ポストカードをタイプライターに挟み込んで、パチパチと一文字ずつを、打ち始めた。

    そして、この詩をくれたのだった。

    ソフトクリームを食べながら、思わず泣きそうになった。なんだかもう、いろいろなことが、ツボすぎる。

    そして毎度おなじみ漢字短冊とミューズ・クリエイションのオリジナルTシャツをお土産に渡したら、ことのほか喜ばれた。なんでもマノージのお嬢さんが、今、日本語を勉強中だとのこと。ARAKUコーヒー自体が日本と深い関わりを持っていることもあり、ご縁は繋がる。

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    ↑我が家のCANDYも、告知に貢献😸

    ☕️ARAKU COFFEE/ 高品質オーガニックコーヒーを生産するソーシャルアントレプレナー。アラク・コーヒー創業者マノージが語る日本との関わり/撮り下ろし

     

    ☕️南インドのコーヒー文化/伝統的なサウスインディアン・コーヒーとその楽しみ方/良質なコーヒーの新潮流/インドで購入できるコーヒー豆や、おすすめのカフェなど

     

    ☕️通販を賑わせるおしゃれな手工芸&天然素材のマスク/農家支援のワールドクラス高品質コーヒー ARAKU COFFEE

     

    ☕️Araku coffee’s make in India push | Co-Founder Manoj Kumar EXCLUSIVE | India Revival Mission