インド百景 2021-2025

天竺の、風に吹かれて幾星霜。ライター坂田マルハン美穂が、南インドのバンガロール(ベンガルール)から発信

MUSE INDIA / HOMEPAGE

✈︎ 過去ブログ/2005〜2025

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    現在は、インド各地でモンスーンの時節。デリーは数週間前、大雨が続いて道路が冠水し、たいへんだったようだ。それを思うと、少々の蒸し暑さくらい辛抱せねばと、昨日は外出を試みた。

    所用もあって、近所のHauz Khas Villageへ。十数年前「お洒落なエリア」として脚光を浴び始め、玉石混淆ながらも歩くのが楽しかったこの界隈。

    しかし今は、廃れ気味の感が否めない。そもそもから、雑然とした古い路地に、洗練されたブティックやカフェなどが点在するエリアだったが、お洒落で目を引くブティックが減っていると、単に古びた通りになってしまう。また時代は巡るだろうけれど。

    その後、サケットというエリアにあるショッピングモール群へ。平日だというのに、多くの人々で賑わっている。

    2020年1月に義父ロメイシュが急逝して、心の整理がつかないまま、世界はロックダウン。ようやく去年の10月、2年8カ月ぶりにデリーを訪れ、今年の1月に京友禅サリーの展示会をして……。

    毎回、家の片付けなどに追われるばかりで、気持ちが落ち着く余裕がなかった。まだ、内装工事、壁の再塗装やカーテンの付け替えなど、あれこれとやるべきことはあるのだが、今回は、さすがのわたしも数日であれこれをやり遂げる気力なく、次回に見送ることにした。

    バンガロールの旧居、新居、そしてデリー宅。さらには福岡の実家。どこに行っても、片付けばかりしている。尤も、片付けによる変化を楽しんでもいるので、昨今では「片付けも趣味のひとつ」ということにしているが、体調の管理も大切。慣れない気候の中で張り切って、主要行事の前に体調を崩してはいけないので、今回は控えめだ。

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    昨日はモールを歩きながら、ロメイシュ・パパが思い出されて、少しブルーになってしまった。パパが好きだったベーカリー (Bread Talk) や、パパが好きだった靴屋 (Hush Puppies)が目に飛び込んできては、泣けてくる。デリーには、パパとの思い出がいっぱいだから、夫もわたしも、まだ感情が揺れやすい。

    とはいえ、パパはわたしたちのそんな様子を望んではいないはず。上階に暮らす義理の継母のUmaを誘って、夕飯を共にする。アルヴィンドの実母は、わたしが夫と出会う数年前に、慢性白血病で他界している。

    そして、パパとUmaが出会ったのも1996年7月。なんと、わたしたち夫婦がニューヨークで出会った5日後のこと。そして結婚したのは、わたしたちよりも半年早め。ゆえに、二人が夫の両親として、嫁であるわたしを迎え入れてくれたのだった。

    夕飯は、一昨日は家で、昨日は近所にある人気店、PLATSにて楽しんだ。家での食事は、もう30年以上、デリー宅を守ってくれているドライヴァーが準備してくれる。彼は運転だけでなく、さまざまなことを管理してくれる大切な存在なのだ。

    PLATSのコンセプトは、以下の通り(ホームページの概要を要約)。

    ・フランス語で「皿」または「プレート」を意味するPlats
    ・料理のジャンルにはこだわらない。創造力とテクニックを駆使
    ・旬の食材を用い、各国料理の味付け取り入れる
    ・コンテンポラリーなダイニング体験を提供
    ・洗練されていながら心地よく、親しみやすい雰囲気

    とまあ、こんなところか。開業したのは2019年の終わり、パンデミックの直前だったので、諸々たいへんだったようだが、デリヴァリーの拡充でしのいだとのこと。インド都市部の飲食産業は、パンデミックを経て大きく変容したとつくづく思う。

    イタリアンにアレンジされたポーク・ダンプリング(小籠包)や、野菜のグリル、シーフードサラダ、コロッケ風、マッシュルームのクリームパスタなど、小皿料理やメインをシェア。どれも、ユニークながらも奇を衒わず、とてもおいしかった。デリー宅から徒歩数分のご近所につき、また来ようと思う。

    https://www.plats.co.in/

    ところでUmaは、昔から、インドファッションの着こなしがとても上手。昨日は、ロング丈のハンドブロックプリントのスカートに、クルタ(トップ)を合わせていて、とても素敵だった。マキシマム丈のスカートも、こうして着ると、重くなりすぎずにいい感じ。今度、真似してみよう。

    ちなみにこのハンドブロックプリント(木版更紗)は、アジュラック染めと呼ばれるもので、インダス文明時代からの歴史を持つ。すなわち数千年前。現在のパキスタン、シンドゥと呼ばれるエリアが起源とされており、イスラムの幾何学模様や植物、花などがモチーフとなっている。

    インドでは、グジャラート州やラジャスタン州で作られてきた。インド亜大陸のテキスタイルの歴史は、本当に古くて、豊かだ。

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    昨夜、久しぶりのデリーに到着した。モンスーンの影響で、このごろは風が強く肌寒い日々が続いているバンガロールから、一転しての蒸し暑さにクラクラする。
    今年1月、デリー宅で「京友禅サリー展示会」を実施するために訪れた時は、寒さに震えていたのだが、一転しての夏。今回は、週後半に開催されるカンファレンスに合わせて来たこともあり、7月の蒸し暑さを避ける余地はなかった。

    久しく快適な高原気候に甘やかされているので、ちょっと不都合な気候にも心が乱されていけない。思い返せば、7月のデリーを訪れるのは、2001年に結婚式を挙げたとき以来、22年ぶり。このごろは、過去が近い。

    さて、5月のムンバイ旅行と同様、今回のフライトも敢えて「VISTARA」を選んだ。バンガロール空港の新ターミナル(ターミナル2)を利用したいがためだ。まだ全面的にオープンしていないので、施設や店舗も完成しておらず中途半端で、乗り入れている航空会社も一部。ゆえに、込み合うことなく、ゆったりとしているのがいい。

    ところでVISTARAは、タタ・グループとシンガポール航空との共同出資による運航ブランドで、2015年に就航を開始した。サンスクリット語の「無限の広がり」を意味するVistaarから命名されたという。美しい名前だ。

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    昨日は、少し早めに空港へ。毎度おなじみ、ラウンジではついつい食べずにはいられないマサラ・ドーサを夫婦揃って食す。注文の決め手は「クリスピー」に焼き上げてもらい、マサラ(スパイス)風味のジャガイモは、ドーサに巻き込まず「サイド(横に添える)」の2点。あくまでも香ばしいドーサが好きな我々なのだ。細かいのだ。

    軽食を楽しんだ後、ターミナル内を散策する。まだ未完成の店舗が目立つが、それでも、国内線でこれだけの飲食店やブティックが揃っていることに感じ入る。アーティストたちの作品もまた、シンプルなターミナルに品良く彩りを添えている。

    いくつもの飲食店が並ぶなか、懐かしのジョニー・ロケッツの店舗を見て、一気に記憶が20代に遡る。

    ロサンゼルス発のこのブランド。わたしが初めての海外旅行でロサンゼルス郊外にホームステイした1985年の翌年にオープン、その後、わたしが就職で上京した1988年の翌年には六本木店がオープンした。

    鈴木英人、村上龍、ナイアガラ・トライアングル、大瀧詠一……。我が青春の記憶が芋づる式に蘇る。

    やはり上京していた高校時代の男友達と共に、六本木店を訪れてビーフたっぷりビーフバーガーを食べたことを、ついこの間のことのように思い出す。「つなぎ」のほとんどない、ビーフがちの「肉肉しい」ビーフバーガー。日本のバブル経済がピークだったころに誕生して、多分、泡のように消えた。

    インドでは、実は10年前にデリーのモールにオープンしていて、そのときも懐かしく思ったが、気づいたら消えていた。今、再びバンガロール空港に「着陸」したようで、インド市場の撤退&再進出の物語も面白いと改めて思う。

    ちなみにKFCのインド1号店が開店したのは1995年のバンガロール。しかし当時は、店頭での反対運動や破壊活動が発生して撤退している。鶏肉が化学物質漬けだとか、インドの食の伝統を侵害するといった真偽が定かではない悪評によるものらしい。

    しかしながら、10年後の2005年。KFCは再度インドに進出。以来着実に店舗数を増やしてきた。今ではそんなことがあったことが信じられないほどの人気ぶりである。ベンガルール(バンガロール)国際空港のCEOであるHari曰く、同空港ターミナル1のKFCは、アジア最大の売り上げだと話していた。インド市場の変貌ぶりを物語る話だ。

    それはそうと、昨日の我がフライト・コーデは、先日ブリゲイドロードのADIDASで、衝動買いした足長効果抜群の上下。ド派手ピンクがかわいすぎる。わたしはスポーツウエアが大好きだ。化繊は苦手だけど、ジャージーだけは例外。たいして運動をしてなくても、死ぬまで体育会系ファッションも貫きたい😆

    バンガロール空港では涼しい顔をしていたが、デリーに降り立ち、空港のパーキングロットをウロウロするうちにも、蒸し暑さがこみ上げて来て、顔がテカる。それにしても、かなり目立つピンクだな。色違いも欲しいな。

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    ✈︎数百年先の未来が見える! 再誕する緑の空港で、わたしたちの木を植える。
    https://museindia.typepad.jp/2022/2022/10/future.html

    ✈︎バンガロールの新しい玄関口。ターミナル2の開港式典へ!
    https://museindia.typepad.jp/2022/2022/11/newera.html

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    🇮🇳これから、久々ニューデリーに飛ぶ。荷造りも終えて準備完了。少し時間があるので、2003年の記録発掘シリーズの③をアップロードしておく。情報がほとんどなかった時代に、試行錯誤しながら活路を見出した経験は、時代が変わっても、何かしら、誰かの役に立つ情報があるような気がしている。

    毎度記しているが、ニューヨークでの起業と就労ヴィザの自給自足、フリーペーパー出版の経緯や、経営維持の困難やトラブルなどのエピソードは、「自分史動画」で語っているほか、拙著『街の灯』(まちのひ)にも残している。

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    ●研究論文書きあげ、プレゼンテーションやり終え、学生生活が終わった。(2003年12月14日)

    サンクスギビング・ホリデー明けの翌週は、本当に気合いを入れて勉強をした。前号にも書いたが、初日のプレゼンテーションは、「インド経済のこれから」がテーマ。そもそもはインドの「ブレインドレイン」(頭脳流出)について研究論文を書くつもりだったが、書き始めているうちにも、米国企業がインドへと進出し始め、米国在住のインドの「頭脳」が帰国し始めている、つまり「ブレインサーキュレーション」(頭脳循環)現象がメディアにて顕著に取り上げられはじめた。

    この2カ月の間に、ニューヨーク・タイムズは台頭し始めたインド経済についてを数回取り上げ(これまではインドの天災とか貧困とか奇習などばかりを取り上げていたのにも関わらず)、さらには、論文の「提出日前日」に、ビジネス・ウィーク誌が「THE RISE OF INDIA(インドの幕開け)」というタイトルで、10ページ以上に亘る特集を組んでいるのを発見!

    読んでしまったら、気分的に書き直さねばならなくなるのは必至だから、仕方ない、気づかなかったふりをして、何事もなかったかのように提出しようとしたら、翌日、プロフェッサー(教授)が、なんとビジネス・ウィーク誌を持って授業に出てきた。

    「ミホはすごくいいタイミングで、インド経済についてをリサーチして、びっくりしたわ~!」

    と、褒め上手な教授に着眼のよさを褒められてうれしかったが、しかし、やはり新しい情報も取り込むべきだと諭され、一人、提出期限をのばしてもらい、新たに情報を加えた。はっきりいって、もういや! というくらいだったが、今となっては、やり遂げてよかった。

    論文はインドに持っていって、インドの家族に見せようと思う。ふふふ。

    そんなこんなで、水曜日は論文のテーマである「インド経済のこれから」を、木曜日は、別のクラスにて「アジアのブレインドレイン」(論文の二番煎じ)を、そして最後のクラスでは「アントレプレナーシップ(起業家精神)」をやった。

    アントレプレナーシップのプレゼンテーションの準備は、時間がない云々の域を超え、かなりの情熱で準備した。テーマは「外国人が米国で起業する方法」。これにケーススタディ(事例研究)として、自分がニューヨークで起業した経緯を織り交ぜつつ、語ったのである。

    何しろ時間が限られていたので、ずいぶんと端折ったが、これはもう、口頭説明の準備をせずとも、いくらでも言葉が出てくる。

    そしてプレゼンテーション。そもそもは人前で話すのは、日本語ですら緊張するタイプだったけれど(最初の数分がとても苦手。しばらくすると大丈夫)、これまで、クラスでも何度かスピーチをさせられることがあり、だから4カ月のうちにずいぶんと慣れてはいた。

    しかし、パワーポイントを使ってのプレゼンテーションは初めてだったから、うまくいくかどうかと、初日は少し緊張していた。2日目にはずいぶん慣れ、3日目にはもう、人前でしゃべるのが楽しく感じられるくらいだった。たいへんな急成長ぶりである。

    まだまだ文法の表現などに問題はあるし、的確な話し方や発音などは練習しなければならないけれど、自分でも最後のプレゼンテーションは、かなりうまくいったと思う。クラスメイトたちも非常に興味を持ってくれて、質問も多かった。

    1時間でもしゃべり続けられると思うくらい、次々に、訴えたいことが出てきた。むしろ不完全燃焼だったくらいだ。

    4カ月間。目に見えて、なにかがみるみる変わった訳じゃない。けれど、今まで、読むのが億劫だった新聞を、ずいぶんと気軽に読めるようになった。英語で文章を書く際の気負いもなくなった。話すときに、新しい単語を使おうと努力するようになった。

    そして、これから、どうやって勉強をし続けていけばいいのか、というヒントを得た。

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    それより何より、わたしはクラスメイトに恵まれていた。本当に、すばらしい人たちに囲まれて、勉強ができたことが、何よりの財産となった。ここで、クラスメイトたちの研究論文のテーマを紹介したい。

    ◎米国移民の一時保護ビザ
    コロンビア人女性(ロイターのジャーナリスト)

    ◎ブランド・ネームの威力
    メキシコ人女性(デザイナー志望の学生)

    ◎インターネット世代
    アルゼンチン人女性(心理学者&二児の母)

    ◎21世紀の米国外交
    韓国人女性(テレビレポーター→米国大学に進学)

    ◎コソボ紛争における北大西洋条約機構の役割
    コソボ人女性(かつて国連勤務、一児の母&妊娠中)

    ◎韓国の若者文化にみるグローバリゼーションの影響
    韓国人女性(弁護士志望学生)

    ◎台湾人のセルフ・アイデンティティ(自己認識)
    台湾人女性(マスコミ関係)

    ◎大量破壊兵器規制
    韓国人男性(政府機関勤務、本日!一児の父になる予定)

    ◎米国におけるスモールビジネスへの公的支援
    日本人男性(金融機関勤務)

    ◎日本の英語教育に対する提案
    日本人女性(英語教師)

    ◎アフガニスタン難民への国際援助
    日本人女性(通訳)

    ◎メキシコにおける児童就労
    メキシコ人女性(ケイタリングビジネス計画中)

    ◎インド経済のこれから
    日本人女性(出版社経営、ライター)

    ◎イスラム法における女性の権利
    サウジアラビア女性(元教師、一児の母)

    このテーマをざっと眺めるだけでも、どんなにユニークな面々が揃っていたかが伺い知れるかと思う。テーマそのものは、少々堅苦しいが、みな気さくで朗らかで、ひとり一人のことを書き綴って紹介したいほど、魅力的な人たちだった。

    🇺🇸坂田マルハン美穂のDC&NYライフ・エッセイ Vol. 107 (12/14/2003)
    https://museindia.typepad.jp/library/2003/12/12142003.html

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    今日やらなくていいことは、全部後回し。

    禁断の、やめられないとまらないポテトチップス。

    バンガロールのインド菓子ブランド ANANDもの。

    過剰包装が、過剰だよ! ご贈答用なの?

    大袋でミニマム包装なパッケージを作ってください。

    100gなんて、一瞬。

    ビールは、超久々のEight Finger Eddie。

    ちょっと甘いけど、濃厚で美味。

    ちなみに現在、入手できるインドビールで、わたしが一番好きなのは、

    Arbor Brewing CompanyのBangalore Bliss、もしくはIPA。

    しかし、激レアなのよ。Thom’s に行って調達せねば。

    今、NetflixのKing the Land観ながら、律儀にアップロード。

    あ〜。至福!

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    来るべくして来た。

    ひとつの「駒」として。

    役割を模索している。

    過去の記憶と思考が、

    愈々、鮮明に蘇る昨今。

    時空は軽やかに歪み易く。

    曼荼羅。

    20歳のわたしが描いた。

    20歳のわたしが叫ぶ。

    自分を見つめよ、と。

    真我を自覚せよ、と。

    * * *

    今を苦しむ若き人へ。

    とりあえず、食べて、寝て、生きて。

    急がずとも、いつか必ず死ねるから。

    わたしたちの身体は、多分「預かり物」。

    とりあえず、ありがたく、大切に取り扱おう。

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    😱「自然を貫く果てしない叫び」。今、地球の叫びは、いよいよ強くなりて。
    https://museindia.typepad.jp/2021/2021/02/sakebi.html

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    ◉明後日からのデリー旅を前に、記すタイミングを逸していた出来事を書き残しておきたい。今月初旬に開かれた勉強会について。スピーカーはムンバイに育ち、米国で学び働き、その後、母国インドに戻り、ロジスティクス(物流)とサプライチェーン(供給販売網)の起業家として成功を収めた女性、バイラヴィ・ジャニ (Bhairavi Jani) だ。バイラヴィはまた、社会開発や自然保護、慈善活動、芸術、古典舞踊と、多方面に活動の場を持つ。

    ◉彼女が昨年、2022年に出版した書籍、”HIGHWAY TO SWADES” に伴っての講演会。わたしはまだ、この本を読んでいないが、それでもコンテンツを眺め、パラパラとページを捲るだけで、その内容が魅力的であることが伝わる。

    ◉バイラヴィは2014年、3人の友人らと、約50日間かけて、インド全土、18,181kmをドライヴ旅行した。この本には、そのときの経験が著されている。これは単なる「紀行文」ではない。

    ◉大きく14の項目に分けられたこの本。自然の力、伝統の力、食の力、知識の力……と、分けられた中に、具体的な経験談とデータが整理されている。たとえば、『Power of Creativity(創造力の力)』の項では、人間が本来持つ「創造力という超能力」が、新時代のテクノロジーとAlを駆使し、いかにして創造的経済を築くのに役立つかについて言及するなど。

    ◉インド各地を調査するという観点を備えた旅は、インドの古今東西、歴史や伝統、ライフスタイルを知る上で、とてつもないヴォリュームであったことは、想像に難くない。彼女のトークの中でも、女性たちの力への期待、貧困層支援のエコシステム構築に関するテーマは興味深く、語るに尽きぬ。

    ◎わたしは20代のころ、東京で旅行誌の編集やライターの仕事をしていた。駆け出しの編集者時代は旅のガイドブックを作っていたが、その後、昭和シェル石油のドライヴ情報誌の編集に携わり、海外の「ドライヴ旅行」を重ねた。そのときに、国境をも走り抜ける「点の旅より線の旅」の方が、遥かに見聞できる情報量が多いことを実感する。

    ◎ゆえに、26歳のときには休暇を利用して、北京からウランバートル(モンゴル)まで36時間の列車旅を決行した。28歳のときには、3カ月間、欧州を列車で旅した。ニューヨークで夫と出会ってからも、夫を連れて(!)、ベルギーを一周ドライヴしたり、スペインのアンダルシアからポルトガルまでドライヴしたり、あるいはローマからバルセロナまで地中海沿岸を列車で旅をしたりと、線の旅を重ねた。インドに移住する直前の数カ月間、カリフォルニアに暮らすことが決まった時には、米国東海岸から西海岸まで、アメリカ大陸を横断した。約6300kmのドライヴだった。

    ◎長距離の「線の旅」を、いくつも経験してきたからこそ、この、アメリカ大陸の比ではない「要素の濃密さ」を湛えたこのインド亜大陸の18,181kmが、どれほどの密度濃いものだったか、想像に難くない。インド人でさえ、その全容を捉えることは不可能なこの大いなる国。4人の人間が旅した結晶を一冊にまとめ上げることが、いかに困難だったかもまた、想像するに余りある。

    ◉それはそうと、バイラヴィ・ジャニ。彼女と会った日の夜、夫に報告したら、なんと彼女は親しい友人だという。夫はアスペン・インスティテュートという米国発のグローバル組織に所属しているが、夫がインド代表として選出されたときの、彼女は同期だという。実はこのトークの前日にARAKU COFFEEのライブラリ・コーナーで偶然にもこの本を見ていた。ARAKU COFFEEのCEOであり、ソーシャル・アントレプレナーでもあるマノージもまた、アスペンを通して出会っている。世間は狭い。

    ◉チェンナイを拠点に、アラク・ヴァレーを経て旅を続けた彼女の話を聞くほどに、ルートが知りたくなるが、本に地図が添えられていない。地図を見たい方は、彼女のInstagramに掲載されているので、参考にされたい。

    ◉トークの後、バイラヴィに、「インドの多様性を日本人に伝えるのは、非常に困難だ」とのことを話したら「この本を日本語訳して!」と言われた。……どなたか!

    ◉ところで、SWADESとは、ヒンディー語で、「我々の国」「我が祖国」を意味する。20年前に公開された映画、インドの超人気俳優シャールク・カーン主演の映画『SWADES』を思い出す。米国のNASAに勤務するインド出自の男性が、故郷に帰り、その困窮した暮らしぶりを目の当たりにする。貧困や身分制度の影響で教育を受けられない子供たちや、インフラ不全の環境に心を痛め、自分にできることを模索する。ちょうど先日、わたしがシェアしたインドの新経済、頭脳流出から頭脳が環流した時代を反映している。
    https://en.wikipedia.org/wiki/Swades

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    💝バイラヴィ・ジャニのInstagram
    https://www.instagram.com/bhairavijani/

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    🌏アメリカ大陸横断ドライヴ(2005年7月)
    http://www.museny.com/2005/gowest00.htm

    🌏モンゴル旅日記(1992年)
    http://www.museny.com/tabimuse/mongol/mongol.htm

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    数カ月前から、複数名より最近のお勧めコスメティクスを尋ねられ、都度「近々、紹介します」と言い続けてそのままだった。忘れぬうちに、放置していた写真を発掘し紹介する。

    毎度、書いているが、そもそもわたしは、スキンケアや化粧品に対する強いこだわりはない。肌にあれこれと、ややこしいものを施すより、身体によいものを食べ、しっかり睡眠をとることが大切だと思っている。
    冒頭から身も蓋もない話だ😅

    かつて、余計なことをして肌を痛めた苦い経験があるせいもある。30代、ニューヨークで仕事をしていたころ、クライアントに勧められ、フランス製の高価な基礎化粧品を買った。刺激が強かったのか、顔中にひどい吹き出物ができた。皮膚科に行くほどの事態となり、肌荒れは半年以上続いた。

    その数年後、今度は別のクライアントが経営するエステティックサロンで、勧められるがまま、当時最先端だった「ケミカル・ピーリング」を試した。直後の紫外線対策が不全だったため、シミの原因になったことを知った。やめときゃよかったと心底思う。

    そんな次第で、基本的にはシンプルなスキンケアを重視。その一方で、インドの自然派コスメ情報に詳しいのは、仕事の関係もある。インド移住当初から、さまざまな調査の仕事をしてきたが、美容関連も遍くその対象だった。何につけても「自分で体験したうえでレポートする」を信条としていることから、気になるものは、一旦試す。

    コスメティクスもシャンプーも、だから色々なブランドのものを、トレンドを見つつ、そのときの気分で購入して、使ってきた。ちなみに普段の洗顔は、インドの自然派石鹸(銘柄あれこれ)を使用。乾燥する時期を除いては、洗顔後にローズウォーターをプシュプシュするだけでノープロブレム。ココナツオイル1本あれば、全身をケアできる……と、またしても身も蓋もない。

    しかし、50代に入ってからは、気分を高めるためにも、質が高めのプロダクツを常備している。思えばその辺りの事情、ロックダウンのとき、ニューヨークで出会ったメイクアップ・アーティストのMICHIRUさんと、2回に亘ってインスタライブをやったり、インドコスメ動画を作るなどして、情報を残している。

    とはいえ、インドの栄枯盛衰は激しく、この2年間の間にも趨勢は変化。消えたブランドあれば、生まれたブランドあり。今日は新旧2ブランド、およびお気に入りのサプリメント的おやつを紹介する。

    ◉1枚目の写真。82°Eは、実業家のJigar Mehta と、ボリウッドの名女優であるディーピカ・パドゥコーンが共同創業者(Co-Founder)として2020年に立ち上げたブランド。ビジネスモデルもユニーク。言及すると長くなるので割愛。わたしは「オイルなのに軽く滑らか、香り優しく適度な保湿感」のあるフェイスオイルが好きだ。

    気に入ったのはブランド名。以下、サイトの記述より概略を紹介。

    「82°Eとは。私たちはインドで生まれた、世界のためのブランド。東経82度30分(インドを通過し、世界との関係を形成する標準子午線)からインスピレーションを得た。インド的な理念と世界的な視野を併せ持つ、モダンなセルフケアブランドの創造を目指している。我々の生む商品は、革新的でありながら、地に足のついたこの二面性を持つ……」

    💝82°E
    https://82e.com/

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    ◉これらの写真はKAMA Ayurveda。こちらは、アーユルヴェーダの処方を生かした洗練されたブランド。2002年創業で、老舗の部類に入る。当初はシンプルな化粧水やオイル、石鹸、シャンプーなどしかなかったが、気づけば大変な品揃えになっている。日本人にも人気のブランドだ。

    わたしは、移住当初に使っていたが、ここ十数年は購入していなかった。ところが夫が自分のために買っていた保湿クリームを、ちょっと拝借したところ、これがなんだか、非常にいい!

    というわけで、妻は夫のものよりも少々グレードの高いシリーズ2種(朝/夜)を購入した。サフランの香りが自然で、肌触りも滑らか。でも正直なところ、夫が使っているクリームの方が、やや安いけど、わたしの肌に合う気がする😂

    💝KAMA Ayurveda
    https://www.kamaayurveda.in/

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    ◉最後は、サプリメント的なおやつ。いや、おやつ的なサプリメント。普段、わたしはサプリメントを摂取しないが、これはおいしくてかわいいので、朝晩1熊ずつ食べる。ヘアケアの青い方は、ビオチンも含まれている。昨年、COVID-19に感染した時、髪の毛がどしどし抜けてしまったが、これのおかげもあって、復活した気がする。

    💝POWER GUMMIES
    https://powergummies.com/

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    1996年に1年間の語学留学予定でニューヨークに渡ったが、数カ月後に日系出版社に就職。日本に帰国するのではなく、ニューヨークで働き続けたいと思ったわたしは、1997年に水面下で出版社を起業。移民法弁護士の力を借りて、その年の終わり、自分の会社をスポンサーに、就労ヴィザ(H1B)を取得した。

    当時、インターネットの情報は浅く、わたしの知る限りにおいては前例のないことだったから、一か八かのチャレンジだった。さらには、日本語のフリーペーパーを出版し始めるなど、特殊なケースだったこともあり、日本のメディアでも折に触れて、取り上げられた。

    この”anan” も、そのひとつ。これは、ちょうどジョージタウン大学の語学学校に通い始めようとしていたときのもの。撮影場所は、当時、よく作業をしていたワシントンD.C.郊外、メリーランド州のベセスダ(Bethesda)にあった大型書店、Barnes & Nobleのスターバックス・カフェ。

    店舗に入るなり、全身が、本の匂いに包まれる。

    カフェのある上階に足を運べば、本の匂いと、コーヒーの香りが溶け合って漂い、独特のときめきを与えてくれた。今、あの匂いを嗅げる場所は、いったいどこにあるだろう。わたしたちが出会ったマンハッタンのブロードウェイ沿い、リンカーンセンター向かいのBarnes & Nobleは、もうずっと以前になくなってしまった。

    今、調べてみたら、このベセスダの書店も閉業していた……。あのような書店がなくなることの、哀しみ。

    わたしたちがマンハッタンに暮らしていたころに撮影/公開されたトム・ハンクス&メグ・ライアン主演の『ユー・ガット・メール You’ve Got Mail』。劇中で、トム・ハンクスが経営する大型書店のモデルこそが、わたしたちの出会ったBarnes & Nobleであり、メグ・ライアンの経営する小さな書店(実際はチーズ専門店だった)もその近く。わたしたちの生活圏内で撮影された。街を歩いているとき、撮影の光景も見たものだ。

    公開と同時に、当時ボーイフレンドだったアルヴィンドと共に、ブロードウェイ沿いのSony Lincoln Squareへ見に行った。トム・ハンクスとメグ・ライアンが映画を見に行くシーンで、二人がまさに、その映画館に入って行く様子が映し出され、館内は大いに盛り上がったものである。

    さておき。あの映画では、小さな書店が大型書店に淘汰される時代の趨勢が描かれていた。しかし、その大型書店の命は短く、十数年で淘汰されてきた。今再び、わたしは「小さな書店」が生まれることを願っている。

    ここに掲載している写真は、わたしの「自分史動画」で使っている資料の一部だ。ロックダウンの間、本当にあれこれと、作ったものである。自分史動画も、子ども時代からインド移住前の40歳までを5本、作っている。古い話ではあるが、海外で暮らそうと考えている人たちには、なにかしらの示唆がある内容かもしれない。

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    🌏世界を旅し、海外に暮らし働く/坂田マルハン美穂の自分史動画シリーズ
    ③ニューヨークで現地採用から出版社起業/インド人男性との出会い/就労ヴィザの自給自足/日本語フリーペーパー『muse new york』発行

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    本日18日は、インドで結婚式を挙げてから22年の記念日だった。

    夜は予定があったので、ささやかながら、ランチで記念日を祝すことにした。英国統治時代から、バンガロールの繁華街であるブリゲイド・ロードにあるアジアン・タパス・レストランのFooへ。カクテルを飲みつつ、小皿料理をあれこれと楽しむ。

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    ランチのあとは、久しぶりにブリゲイド・ロードを歩く。インドでは、滅多に買い物をしない夫。かつては年に一度のニューヨーク旅行時に、まとめ買いをしていた。しかし、2019年5月を最後に、ニューヨークを訪れていない。そのことを思うとき、わたしは刹那、胸が締め付けられる。

    今の、わたしたちの優先順位を、見つめている。

    なにもかもが、記憶の深海に堆積していくようだ。

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    Anyway.

    ASICS, ADIDAS, LEVIS…と、アクティヴ・ウエアの店に立ち寄り、思いがけず買い物をしたあと、チャーチ・ストリートのスターバックス・カフェへ。ニューヨーク・チーズケーキを食べながら、やはり思い出すはマンハッタン。今はなき、出会いのスターバックスを思う。

    もう22年。まだ22年。願わくばまだ、この先も、鮮やかに長い道のり。

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    ◉インド結婚式の記録(2001年7月)
    https://museindia.typepad.jp/…/lifewedding-in-india-2001/

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    🇮🇳インド経済の背景を見るとき、国家と人間、すなわち「インド国家」と「インド人」とを切り離して捉える必要がある。国としては、その経済的な側面から「新興国」と捉えられてきたが、過去数十年に亘り「先進国」のテクノロジーを支えてきたのは、インド人でもあるのだ。

    インドは、1947年にパキスタンと分離独立した当初、国を挙げてエンジニア養成に力を入れてきた。しかし、独立以降、社会主義的政策をとってきたことから、優秀な人材は先進諸国に流出した。インド人は、欧米のIT業界や医療その他、さまざまな分野においてその力を発揮し、異国の経済成長に貢献してきた。

    その潮流をして「頭脳流出」と呼ぶ。

    しかし、1980年代後半、ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長が指揮したペレストロイカにより、社会主義は事実上崩壊。その余波を受けたインドは財政破綻を目前にして、1991年市場を解放、海外資本の導入を受け入れ始めた。今世紀に入ったころから、米国、カナダほか英語圏の先進諸国がインドにBPO(Business Process Outsourcing)拠点を据え始める。

    そんな背景を、20年前に知ったわたしは、俄然、インドに興味を持ったのだった。というわけで、以下の20年前の資料を発掘した。手前味噌ながら、これに目を通すと、番組への理解が深まるのではないか……と思う。

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    🇺🇸20年前を回想 (1)「インドの新経済」「頭脳流出と回帰」。語学学校で書いた研究論文が、わたしにインド移住を決意させた。

    1996年にわたしがニューヨークへ渡ったのは、「1年間の語学留学」が目的だった。海外旅行誌の編集者やライターとして東京で働いていた当時、海外取材が多かったにも関わらず、英語力が乏しかったのが理由だ。しかし、語学学校には数カ月通っただけで、大した語学力の向上をみないまま、わたしは現地採用で就職。その後も出版社を起業して、語学を磨く機会を持たなかった。

    2001年7月、自分たちの結婚式を挙げるために、わたしは初めてインドの土を踏んだ。そのときには、自分が将来、インドに住むことになろうとは思わなかった。むしろ、「住めない」と思った。

    しかし、それからわずか2年後の2003年。わたしの意識は大きく変化した。理由はいくつかあるが、自分たちが米国に暮らし続けることに懐疑的になったことに加え、これからはインドの時代だと予感したからだ。当時の決意をして、先見の明があったというよりは、運命の導きのようなものだったと、今は思う。

    インドでの結婚式からわずか2カ月後の9月11日。わたしの住むニューヨークと、夫の住むワシントンD.C.(正確にはヴァージニア州)が、米国同時多発テロの標的となった。

    10月に予定していたニューヨークでの結婚披露宴は当然キャンセル。このテロ事件を機に、人生の優先順位を見直したわたしは、遠距離結婚を諦め、ワシントンD.C.に居を移した。それから2002年、2003年は、わたしにとって「陰」の時代でもあった。

    末期癌で闘病する父と親しい友人。大好きだったニューヨークを離れ、ミューズ・パブリッシングを縮小して移転したことに伴うよるストレス。半ば専業主婦のような日々への戸惑いと、不妊……。

    当時のわたしは、30代後半にして、自分の未来像を見失っていた。そんな最中の2003年8月。夫と口論しているときに「ミホはそのまま、中途半端な英語力でいいのか?」と吐き捨てるように言われた。図星の悔しさから一念発起。近所のジョージタウン大学で、フルタイムの英語集中コース(3カ月)を受けることにした。

    もしもあのとき、夫と喧嘩をしなかったら。もしもあのとき、語学学校に通わなかったら。今、わたしたちは、まだ米国に暮らしているかもしれない。

    「わたしたちはインドに移住すべきだ」と確信し、嫌がる夫を1年以上に亘って説き伏せて、のちのち振り返っても意味不明の情熱に駆り立てられ、インド移住プロジェクトを進めた2004〜2005年。情熱の理由は、語学学校の卒業論文で、「インドの新経済」と「インド(アジア)の頭脳流出」の研究レポートを書いたことにほかならない。

    当時、インドに全く関心のなかったわたしが、なぜこれらをテーマに選んだのか。米国はじめ、先進諸国には多くの優秀なインド人が暮らし、その国々の経済成長に貢献している。自分の夫にしても然り。しかし、母国インドは「発展途上国」と定義づけられている。なぜなのか。その理由を知りたかったからだ。

    一昨日(7月16日)に放送されたNHKの『インドの衝撃』に思いを巡らせているとき、ふと当時、自分が書いたレポートを見たくなり、CDに保存していた20年前の資料を引っ張り出した。無事に開いた。レポートはもちろん英文で書いたが、その後、日本語にも訳した。『深海ライブラリ』ブログにそのレポート及び、このプレゼンの拡大写真を転載しているので、ぜひ目を通していただければと思う。

    レポート提出とは別に、クラスでプレゼンテーションも行った。そのときの詳細も、当時発行していたメールマガジンに記している。読み返すに、当時のことがありありと思い返されて、懐かしくも楽しい。

    今からちょうど20年前。このときはじめて、わたしはパワーポイントを使って資料を作成した。いつものように独学で、試行錯誤しながら資料を作った。今、見るに、手を加えたいところも多々あるが、ここには当時のままの資料をシェアする。
    結婚をするときに、相手の歴史(バックグラウンド)を知ろうとするのは当然のこと。

    インド進出をするときには、インドの歴史を知っておくのも当然のこと。深海に眠るわたしの記録とて、「お見合い」に際しての、何かの参考になるかもしれない。ゆえに、掬い上げ、光を当ててみる。

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    【要綱】

    I. 序文

    II. インドの頭脳流出(ブレイン・ドレイン)の背景

    III. 米国におけるインド人就労者(IT関連)

    IV. 米国のIT(Information Technoroly: 情報技術)業界に於けるインド人の貢献

    V. インドの頭脳流出の利点と不利点

    VI. インド及び米国に於けるIT業界の現状

    VII. インドの新経済

    VIII. 結論

    【概要】

    1947年に、インドが英国から独立してまもなく、インドの指導者たちは「新しい国」の地盤を築きはじめた。時の首相、ネルーは、その一環としてインド工科大学を設立、現在インド国内には6つのキャンパスがある。

    インド工科大学および他の大学は優秀な学生を輩出してきたが、彼らの多くは西側諸国、特に米国に移った。この頭脳流出現象は1950年代に始まり、以降、半世紀に亘り継続している。

    1990年代、カリフォルニアのシリコンバレーでIT(インフォメーション・テクノロジー)ブームが起こった。無数のインド人技術者たちが米国に、米国政府や企業もまた、彼らを快く受け入れた。

    頭脳流出により、インドは優秀な若者たちを失い続けてきた。国連開発計画(UNDP)によると、インドは頭脳流出により年間20億ドル損失を被っているという。一方、インドは「IT国家」という名声を獲得した。

    2000年、米国のITブームは崩壊し、多くのインド人雇用者は職を失った。帰国を余儀なくされた彼らはしかし、現在、母国の経済成長に貢献している。

    現在、米国での就労経験のあるインド人は、自分たちのビジネスを起こし、ハイテク・ブームを起こしつつある。同時に米企業は低賃金で雇用できるインドにオフィスを拡張しつつある。

    米国とインドが、均等に利益を得られるとしたなら、この傾向はインド経済の活性化を促すこととなるだろう。

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    インド新経済

    (I. イントロダクション)

    1947年、英国から独立して以来、インドは「頭脳流出(brain drain)」という深刻な現象に直面してきた。「頭脳流出とは、高度な技術を身につけた人材が母国を離れ、より高収入を得られる国へ移る現象をいう」 (Longman Dictionary)。1950年代の後半より起こり始めた頭脳流出により、インドは高学歴の優秀な人材を、米国を中心とした先進諸国に「輸出」し続けてきた。

    1990年代、カリフォルニアのシリコンバレーでITブームが起こり、膨大な数のインド人技術者、専門家らが米国に移り住んだ。米議会は年々、H1Bビザ(一時就労ビザ)の発給枠を拡大し、インド人は全世界の合計発給数の20%以上を占めるようになった。「1993年には、インド国内の大学でコンピュータ・サイエンスを学んだ卒業生のうちの84%が、米国で就職、あるいは更なる高等教育を受けるために渡米した」 (Constable A23)。

    2000年以降、米国のITバブルは崩壊し、インド人を含む多くの労働者が職を失った。現在、頭脳流出の逆流、つまりインド人らが帰国する兆候が現れてきた。米国での就労経験があるインド人らは、母国の、特に近年、IT産業の著しい発展で知られるバンガロールを目指して帰国を始めている。米国において職を失ったインド人らにとって、バブルの崩壊は困難な状況ではあったが、インド経済にとってはポジティブな要因となった側面がある。

    インドが長期に亘る頭脳流出によって損失を被ってきたのは事実だが、インドそのものに、若く優秀な人材を引きつけるマーケットがなかったのも事実だ。一方、米国は可能性に満ちあふれた土壌があった。頭脳流出は起こるべくして起こった現象と言えるだろう。

    しかしながら、この現象は今、変貌を遂げつつある。いくつかの米国企業が、インドにオフィスを拡張し、米国での就労経験があり、母国で就職することを望んでいる人々を採用しはじめたのだ。同時にインド政府や各種組織、団体も、起業家支援を開始し、米国企業や投資家を積極的に招聘しはじめた。

    「頭脳流出」は最早過去の遺物となりつつある。むしろ現在の現象は「頭脳循環」と呼ばれるべきだろう。

    「彼らは資金とビジネス・コンタクトを持って帰ってきている。これは実にすばらしいことだ」。ニューデリーを本拠とするソフトウェアのロビーグループNASSCOMの取締役、Dewang Mehtaは語る (CNN.com)。今、インドは積極的に起業家を支援し、ビジネスとインフラストラクチャーの基盤を整備する必要があるだろう。
     

    (II. インドの頭脳流出の背景)

    1947年にインドが英国から独立を勝ち取ったとき、国の指導者たちは新しい国の基盤・構造の整備を始めた。その中でも特筆すべき事業は、1950年代後半より着手されたインド工科大学(IIT)の設立だった。ときの首相、ネルーは、インド国内のさまざまな産業のプロジェクトを構築、運営できるエリートたちの養成を、主たる目的に掲げていた(Constable A23)。

    インド政府は、デリー、チェンナイ、ボンベイ、カンプール、カラグプール、ローキー、6つの都市にそれぞれインド工科大学(IIT)を設立した。毎年10万人を超える学生らが受験するが、合格者はわずか2000人程度の狭き門である。この競争率は、米国のハーバードやスタンフォードよりも高い (CNN.com)。

    しかし、ネルー元首相の思惑とは裏腹に、インド工科大学(IIT)をはじめ、Indian Institutes of Management (IIM), Regional Engineering College, Madras University, and Pune Universityといった優れた教育を行っている大学の卒業生らは、母国に何ら貢献することなく、米国へ渡っていった。この傾向は1950年代後半より顕著になり、以降半世紀以上に亘って続いてきた。

    1990年代に入ると、シリコンバレーのITブームに伴い、より一段と多くのインド人技術者らが米国を目指した。すでに頭脳流出は防ぎようのない現象となっていた。インドは貧困にあえぐ発展途上国である。ビジネス基盤は極めて劣悪で、優秀な学生らを受け入れる十分な企業が、そこにはなかった。

    知的で精力的な若者らが、西側諸国、特に米国を目指すのは、自然の流れだった。彼らの多くはアメリカンドリームをつかみ取ることを夢見ていた。米国は自由の象徴であり、その米国で働くことは、若者にとって極めてエキサイティングな挑戦でもあった。このような傾向は、なにもインドに限って起こったことではない。アジアの、例えば中国や台湾、韓国の学生らも、同じような理由で米国を目指してきた。

    (III. 米国におけるインド人就労者)

    年々、米国における永住権の獲得は困難になりつつあるが、しかし他の先進諸国と比較すると、米国は移民に対して積極的に門戸を開いてきたといえるだろう。特にインド人は、米国の企業で比較的優遇されてきた。

    「毎年、世界中から何百人、何千人もの人々が米国の就労ビザを申請するが、米国の雇用者はインド人就労者に対し好意的だ。なぜなら彼らは英語を話せるし、要求も少ない。更に母国の高度な教育機関のおかげで、他の国の人々よりも優れたコンピュータに関する技量を身につけている」 (Constable A23)。

    1990年代のITブームの折、米国は膨大な数のH1Bビザ(一時就労ビザ)をインド人就労者に発行した。「米議会は2000年、H1Bビザの年間発給枠を、それまでの11万5000人から19万5000人にひきあげた。そのうちの45%近くは、ここ数年、インド人によって占められている」 (Creehan 6)。

    (IV. インド人労働者の、米国IT産業に於ける貢献)

    米国のインド人労働者は、米国のIT産業の発展と景気の向上に貢献してきた。「インド人らは、自分たちの文化や言語、教育システムが、自分たちの数学やコンピュータのコードライティングに於ける優れた技術の背景になっていると信じている」(CNN.com)。

    事実、有名なソフトウエア・アプリケーションの大半は、インド人コードライターによって制作されている 。シリコン・バレーの起業家であり、インド工科大学(IIT)の卒業生であるKanwal Rekhi氏によると、インド人の精神は哲学的で自由であり、またインドでは、数学は生活の一部であり、インド人はみな、数学者であるとのことである(CNN.com)。

    (V. インド人の頭脳流出に於ける、有利な点と不利な点)

    優秀なインド人が米国の企業で働いている間、彼らの母国はあがいていた。インドは優秀な人材を育成しているにもかかわらず、彼らから何ら利益を得ていなかった。「何十年にも亘り、大半のインドの頭脳が欧米に流出している事実は、納税者であるインド国民らにとって、あたかも欧米の産業に助成金を与えているようなものだとの不満があった」(Creehan 6)。

    2001年に発表された国連開発計画(UNDP)の報告によると、インドはコンピュータ技術者の米国への頭脳流出により、年間20億ドル損失を被っているという(BBC News)。

    確かにインドは頭脳流出によって多くの打撃を受けてきたが、同時に「IT国家」という名声を獲得するに至った。

    「メイド・イン・ジャパンの電化製品が一級品であることを示すように、インド人のソフトウエア・プログラマーは一級品であるということを、シリコンバレーに於けるインド人らは、全世界に対して示した。つまりインド人のIT業界に於ける「ブランド化」を図ったともいえる」と国連開発計画(UNDP)の報告は続けている (BBC News)。

    2000年、米国のITブームは急速に冷え込んだ。以来、無数のIT関連企業が倒産し、多くのインド人を含む労働者が解雇された。さらには2001年9月11日の同時多発テロは経済の冷え込みに拍車をかけた。「インド人のIT技術者が最も多く働いているカリフォルニア州のサンタ・クララでは、過去2年 [2001-02]の間に19万人の労働者が職を失った (United Press International)。

    H1Bビザで働く外国人就労者が職を失った場合、それと同時にビザのステイタスも失うことになる。つまり、すぐに次なる仕事を見つけない限り、即刻、米国を離れなければならなくなる。かつては帰国を余儀なくされたインド人らは、やむを得ず帰国する、つまり悲観的なケースが多かったが、最近では自ら率先して帰国を選ぶインド人が増え始めている(United Press International)。
     

    (VI. 現在のインドと米国におけるIT業界)

    ここ数年、無数のインド人技術者は米国を去り、母国で起業し始めている。それと同時に米国の企業もインド市場に着目しはじめた。「最近、海外資本や合弁事業を優遇する方向で、インドのビジネス法が見直されたことにより、1998年に米マイクロソフト社がインドのハイデラバードに研究開発センターを開設したのを始め、多くの米IT企業が、インド進出を目論んでいる」(Constable A23)。

    ソフトウエア会社のオラクルの場合、インドオフィスで新規採用した4000名の従業員のうち10%は、かつて米国で就労経験のあるインド人によって占められている(Jayadev)。

    2003年7月、「シリコン・インディア・マガジン」は、シリコンバレーの心臓部であるサンタ・クララでジョブ・フェア(企業説明会)を企画した。約2000人のインド人技術者らが履歴書を持参し、インド国内に事業展開を予定している米国企業の人事採用担当者に手渡した。参加した企業は、インテル、マイクロソフト、ナショナル・セミコンダクター・カンパニーなど28の有名企業である」(Jayadev)。

    「新しい投資やアイデアへの開眼により、国々が正しい環境を創造するとき、彼らは失ってきたものを奪回することができる。バンガロールの今日の成功は、つまりシリコンバレーのインド人らの存在が大きく影響している」(BBC News)。

    最早、今日のインドは頭脳流出の被害者ではない。確実に至るところで、頭脳流出は逆流を始めている。いわば今日の現象は「頭脳循環: brain circulation」と呼ばれるべきで、米国のメディアもインド経済について積極的に取り上げ始めている。

    たとえば2003年10月20日のニューヨークタイムズ紙では、「Sizzling Economy Revitalized India [躍進する経済がインドを再生する]」と題し、インド経済に対する楽観的な見通しを示している。またIT業界だけでなく、インドの自動車・部品産業の成長についても言及している。

    同じくニューヨークタイムズは翌月にも 「Sleepy City Has High Hopes, Dreaming of High Tech [ハイテクの夢を見る……眠れる町が抱く大いなる希望]」と題した記事を掲載。IT産業のハブシティとして特筆すべきバンガロールだけでなく、Chandigarhといった小さな地方都市(町)までもが、テクノロジーの町として成長し始めている様子をレポートしている。

    ニューヨークタイムズは従来、天災や貧困、疫病、奇習といった、インドに対してネガティブな記事ばかりを主に紹介していた。しかし最近は、その視点が変わりつつある。

    加えて2003年の12月8日に発行されたビジネスウィークマガジンは「The Rise of India [インドの台頭]」という特集を組み、約10ページに亘って、インド経済の現状と将来の見通しを、一部、中国経済とそのバックグラウンドと比較しながら分析・紹介している。

    米国議会は次年度[2003年10月~2004年9月]のH1Bビザの発給枠を、従来の19万5000人から6万5000人へ大幅に減らすことを発表した。この大きな削減は、インドと米国両方のIT業界に打撃を与えることになるだろう。

    インド最大のITサービス会社、タタ・コンサルティング・サービスのCEOであるS. Ramadoraiは、しかし楽観的である。「[たとえ米国が]雇用を海外 [インド]に広げたとしても、企業はビジネスをうまく運営していけるだろう。 […] 顧客は単に、インドにプロジェクトを送ってくれればいいのだ。それはインドのビジネスチャンスが増えることにもつながる (Einhorn)。

    現在、米国の政治家や専門家らの間で話題になっているトピックスのひとつが、インドや中国で低賃金雇用を実施するアウトソーシングについてだ(Einhorn)。もしも、米国とインドの利益が均等に分配された場合、この傾向はインド経済を活気づける一つの起爆剤となりえるだろう。

    「技術や才能の恩恵を被る国の利益は、他の国の犠牲の上にあると、頭からきめてかかる人が大半だろう。しかし「頭脳循環」は現在のところ、高度技術者である移民たちによって、双方に利益をもたらしている。つまり利害関係がうまく成立しているといえるだろう(Saxenian 28-31)。

    (VII. インドの新経済)

    21世紀の始まりとともに、インドの新世紀も開けようとしている。インドの長い歴史の中で、今は最も重要な時機であることは確かだ。今こそ、未開拓の可能性に着目すべきだろう。しかしながら、インド経済の発展には数々の障害が横たわっている。多くの懐疑派は、インド経済の将来に対して悲観的だ。

    インド政府と関連機関は、ビジネス基盤の整備と、ビジネス法の制定に早急に着手するべきだろう。同時に他の根本的な問題の解決も急務だ。

    たとえばインドが抱える膨大な人口(10億人超)のうち、26%は貧困にあえいでいる (Waldman A7)。またわずか65.38%というインド国民の平均識字率は、初等教育拡充の必要性を示している(Census of India, 2001)。

    ハイウエイの不足もまた、産業の成長を阻む理由となっており、新設が急がれる。

    事実、ボンベイとプネ間に最近完成したばかりのハイウエイは、すでにインド経済の発展に貢献している。「プネで運び込まれるソフトウエアや自動車部品などの工場製品などは、[ボンベイに移送され]、効率よく海外に輸出されるようになった。このことで、プネはインドの新しい経済都市としての地位を築き始めている(Business Week, 78)」。

    ともあれ、インドは大きなチャンスを目前にしているには変わりない。国連によると、「発展途上国の挑戦は、プロフェッショナルな人材を自国に留めると同時に、帰国する人々を支援することによる」(BBC News)。

    現在、欧米との関わりを持つ若きインド人のプロフェッショナルたちは、母国の新しい経済基盤の構築に貢献するため、欧米とインド間を結ぶ「橋渡し」としての役割を果たすべきだろう。

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    Works Cited

    AnnaLee Saxenian. “Brain Circulation” The Brookings Review, Winter 2002. 28-31.

    Avalos, George. “Foreign Technical Workers in Walnut Creek, Calif., Area Aid Home Countries” Knight Ridder Tribune Business News, 19 Apr. 2002.

    ” Brain Drain Costs Asia Billions” BBS News, 10 Jul. 2001.

    Census of India

    “Commentary: India’s Reverse Brain Drain” United Press International, 25 Aug. 2003.

    Constable, Pamera. “India’s Brain Drain Eases Off” Washington Post, 14 Sept. 2000: A23.

    Creehan, Sean. “Brain Strain: India’s IT Crisis” Harvard International Review, Summer 2001: 6-7.

    Einhorn, Bruce. “An Irresistable Offshore Tide for Jobs” Business Week Online, 19 Nov. 2003.

    Hattori, James. “Reversing India’s Brain Drain” CNN.com, 25 Aug. 2000.

    Jayadev, Raj. “Reverse Brain-Drain: U.S.-Based Indian Tech Workers Go Home” Pacific News Service, 1 Aug. 2003.

    Longman English – English Dictionary.

    Rohde, David. “Sleepy City Has High Hopes, Dreaming of High Tech” New York Times, 20 Nov. 2003.

    “The Rise of India” Business Week, 8 Dec. 2003. 78.

    Waldman, Amy. “Sizzling Economy Revitalizes India” New York Times, 20 Oct. 2003: A1.

    🇮🇳インドに関するセミナー(パラレルワールドが共在するインドを紐解く①~⑤は必見)
    https://www.youtube.com/playlist?list=PLtS91Qr_YL53TioXolCLop5pTKNZJuJ_U