インド百景 2021-2025

天竺の、風に吹かれて幾星霜。ライター坂田マルハン美穂が、南インドのバンガロール(ベンガルール)から発信

MUSE INDIA / HOMEPAGE

✈︎ 過去ブログ/2005〜2025

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    2001年9月11日。ニューヨークとワシントンD.C.の二都市生活をしていたとき、米国同時多発テロが起こった。

    2008年11月26日。ムンバイとバンガロールの二都市生活をしていたとき、ムンバイ同時多発テロが起こった。

    大気が震えるような恐怖や悲しみを目の当たりにした。自分自身の生き方や考え方は、間接的であれ、大きな影響を受けた。

    🇮🇳

    今から19年前の2004年4月14日深夜、わたしは生まれて初めて、ムンバイに降り立った。喧騒の空港を離れ、タクシーはムンバイ南端にあるタージマハル・パレス・ホテルに到着した。その壮麗な建築物に圧倒される一方、当時は改装工事中。わたしたちは旧態依然の旧館に通された。あの日のことが、ついこの間のことのように蘇る。

    なにしろ、ネット上には、当時の記録が写真と共に克明に残されているから、瞬時に紐解くことができ、忘れようにも忘れられない。当時の様子をご覧になりたい方は、どうぞ以下のホームページへ。冒頭、日付に誤植があるが、このmuseny.comのアカウントには、もうアクセスする術がなく、修正不可能だ。

    タージマハル・パレス・ホテル。わたしにとって、思い入れの強い場所。

    このホテルが建てられたのは、英国統治時代の1903年。今からちょうど120年前のことだ。当時、インドにある高級ホテルの大半に、インド人は宿泊することができなかった。「インド人と犬はお断り」などとするホテルもあった。このあたりのことは、わたしのセミナー動画でも詳しく語っている。一部資料の写真もここにシェアしておく。

    さて、インド人の実業家、タタ・グループの創始者であるジャムシェトジー・タタは、インド人が泊まれる高級ホテルの建設に着手した。当時としては最先端の米国製エレベータや天井のファンを備え、クーポラの鉄筋はエッフェル塔と同じものを用いるなど、建築物そのものにも、さまざまなストーリーがある。

    以下、Wikipediaの文章に少々手を加え、転載しておく。

    「タタ・グループは、インド最大の財閥であり、ペルシア一帯(現在のイラン)からインドに渡ってきたパールシー(ゾロアスター教徒)の子孫であるジャムシェトジー・タタ(1839年-1904年)が、1868年にボンベイ(ムンバイ)で設立した綿貿易会社をその始まりとする。

    1870年代には綿紡績工場を建ててインド有数の民族資本家となった。彼は大きな製鉄所、世界的な教育機関、大ホテル、水力発電所をインドに建設することを夢見たが、そのうち生前に実現したのは1903年に建てられたタージマハル・ホテルのみであった。しかし彼の残した構想は、タタ・スチール、インド理科大学院(バンガロールにあるIIS)、タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレス、タタ・パワーとして結実した。」

    彼の富と名誉の結晶は、他のどのホテルにも劣らない歴史的なホテルとして誕生し、以来、百年以上に亘り、世界中の人々を招き入れてきた。華やかな、あるいは重要な、歴史の舞台として人々の記憶に刻まれ続けるホテル。エントランスに足を踏み入れれば、晴れ晴れと、優麗な空気に包まれる。

    🇮🇳

    わたしは、このホテルの旧館にあるSea Loungeの窓際の席で、くつろぐのが好きだった。ムンバイに住んでいたころも、そして旅に訪れたときも、必ずここに立ち寄り、ただコーヒーを飲んだり、あるいはハイティーを楽しんだりした。

    アラビア海に面したインド門、そこに集う観光客……。まるで映画を見るような気持ちで、ぼんやりと、外を眺める。本を読んだり、書き物をしたり……時を忘れて何時間も座り続けることもあった。

    かつては、ゲストはたいてい少なく、給仕は老紳士ばかりで、とてものんびりとした風情だった。しかし、歳月の流れと共に様子は変わっていった。パンデミック以前から、窓際は満席であることが多く、お気に入りの席に座ることはできなくなった。今回も、窓から少し離れた場所でさえ、すでに満席……。

    諦めて、ラウンジをあとにした。

    自分の好きな場所が、多くの人に楽しまれているのは、うれしいことだ。しかし、あの穏やかだったSea Loungeが、今は少し、恋しく思う。

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    コラバ・コーズウェイにあるレオポルド・カフェ。ここもテロリストに襲撃された。当時の弾痕をそのままに残す窓もあり……。このホテルやムンバイ同時多発テロを巡っては、過去にたくさんの記録を残している。

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    ✏️ムンバイ、心の拠り処。タージマハル・パレスホテル/テロの記録など(2013年11月)
    https://museindia.typepad.jp/library/2013/11/1126.html

    ✏️インド彷徨(2004年4月)
    http://www.museny.com/2004/india0404-00.htm

    ●インド・ライフスタイルセミナー/パラレルワールドが共在するインドを紐解く③明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈前編〉人物から辿る日印航路と綿貿易/からゆきさん/ムンバイ日本人墓地/日本山妙法寺

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    インド東部オディシャ州で昨日2日、列車同士が衝突するひどい鉄道事故が起こった。史上最悪の事故に近いスケールだ。現在、238人以上が死亡し、900人以上が負傷したとのニュースが流れている。数字は更に、増えるだろう。

    ニュースが映し出す事故現場では、3本の列車が、すさまじく破壊された姿で交錯している。いったい、どういう経緯でこんな大事故になったのか……。

    広大な国土を持つインド。都市部では最先端の設備を備えた鉄道施設を見かけるが、老朽化著しく、安全性に問題のある場所も少なくない。いや、多数だ。また整備不良が原因の鉄道事故も、未だに頻発している。

    ムンバイの通勤列車では、今でも人々が開放されたドアから身を乗り出して乗車しており、毎日、何人かが落下して死亡している。踏切や柵の不備による鉄道での人身事故も少なくない。

    2015年の日印首脳会談で、日本の新幹線方式の高速鉄道導入が決定した。高速鉄道は、ムンバイとグジャラート州の工業都市アーメダバード間、約500kmを結ぶというものだ。そのニュースを聞いた時から、個人的にはずっと、反対の思いでいる。国家レベルの、しかも母国が関わるプロジェクトについて、水を差すような発言は控えてきたが、やはり、声を上げずにはいられない。

    その500kmにかけた予算と技術を、他の何千キロ、何万キロの鉄道の安全に投資して欲しかった。インド全国、遍く最低限、安全な鉄道環境が整えられた上での、次のステップが高速鉄道導入ではなかろうか。基礎がぐらついているところに、重厚で立派なものを据えている。

    その後、わたしは2017年、ジャイプールで義足を作るNGOを訪問した。そのとき、足を無くした人の大半が、鉄道事故による負傷だと聞いた。鉄道の安全性の確保が急務との思いを新たにした。この件については、書きたいことがありすぎるのだが、そのためには事実の再検証なども必要になるので、軽率な発言は控えたい。今は、徒に叩かれることも、避けたい。

    参考までに、14年前に西日本新聞の『激変するインド』の記事と、ジャイプールの義足作りNGOを訪問した時の記録を転載する。ムンバイの鉄道事情は、当時から、さほど変わっていない。今でも、危険だ。

    ジュンパ・ラヒリの作品『その名にちなんで(原題:The Namesake)』を思い出す。2007年、ミーラー・ナーイル監督により映画化された名作だ。主演のひとり、イルファン・カーンの存在感が、いまでもしみじみと、蘇る。あのような苦悩を抱える人が、またぞろ、たくさん生まれてしまった。

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    🦵世界最大規模の義足工場 (NGO)、ジャイプル・フットを見学の有意義(2017/12/20)

    ◎今日の午前中は、いくつか用意されたツアーの中から、希望するものを選んで参加。パレスの修復建築見学、ジャイプル陶芸の絵付け体験、Forest Essentialsの香水調合レッスン……といくつもの魅力的な企画があるなか、わたしは出発前から、Jaipur Footの見学を希望していた。

    今回のイヴェント参加者約400名。うちJaipur Footの参加希望者はわずか4名。

    うち集合場所に現れたのはわたし一人! 一人でも催行してくれるということで問題はなかったが、今回、親しくなったマレーシア人のエリサ(ゲストスピーカーだった “500 Startups” のカイリーの妻)が、どれに参加しようか迷っていたので誘ったところ、強い関心を示し、同行することに。

    案内してくれたのは、YPOのジャイプール支部のメンバーで、ドクターのアニタ。ジャイプル市街にあるJaipur Footは、1975年、D.R.メータ氏によって創設された「義足作り」のNGOで、世界最大規模を誇る。

    世界各地を行脚するメータ氏の熱意と行動力、そして口コミの影響で、国内外からの寄付や支援が募られている。結果、超廉価で膨大な数の義足を、貧困層の人々に無償で提供している。創設当初は決して快適とは言えぬクオリティだったが、米スタンフォード、米MIT、そして印IITなどの協力により、世界最先端の技術が導入され(作業現場は前時代的にしかみえないのだが)、品質も向上。1975年はわずか年間59足からスタートしたが、昨年は年間8万5000足を超えた。

    以下、特筆すべき事項を箇条書きにしておく。

    ◎主には超貧困層が対象。
    ◎義足代はすべて無料。
    ◎世界各国から購入者を受け入れる。
    ◎数年に一度のメンテナンスが必要。ゆえに海外在住者には1度に2セットを提供。
    ◎アフガニスタンやバングラデシュなど海外約30カ国のキャンプに義足提供。
    ◎インドの義足利用者の半数以上が鉄道事故による負傷。
    ◎アポイントメント不要。いつ訪れても受け入れられる。
    ◎到着した日に足型をとる。24時間後に義足完成。
    ◎到着した翌日に装着、歩行練習をする。
    ◎米国では120万ドル(約120万円)で売られている義足を、わずか50ドル(5000円)程度で製造。

    工場内を見学したあと、創始者のメータ氏に話を聞く。ご本人のエピソードに加え、マハトマ・ガンディやシュバイツアー博士の言葉に感銘を受けたという、その言葉を教えてくれる。強く心を動かされる。

    義足使用で自由に動き働く人を目の当たりにし、また、1年ぶりに自力で歩き始めた女性の一歩に立ち会える機会を得た。胸が熱くなる。ここには到底書き尽くせぬが、本当にいい経験だった。

    [ラジャスターン旅 01@ジャイプル] 稀有な体験の数々。YPO主催のイヴェント参加の数日(2017/12/20)
    https://museindia.typepad.jp/2017/2017/12/jaipur.html

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    🥻約5メートルの一枚布を巧みに身体に巻き付けて着こなす、シンプルながらも華やかなインドの民族衣裳、サリー。インダス文明の時代から数千年の長きに亘り、サリーはインド亜大陸に暮らす女性たちの身を包んできた。

    絹や綿、絹と綿の混紡など、布の種類にはじまり、織り、染め、刺繍、紋様など、産地や品質によって無限とも思える選択肢があるサリーは、インドの多様性を象徴するかのような衣類だ。

    更には、同じ絹でも、柔らかいもの、滑らかなもの、光沢のあるもの、粗いものなど、数多くの種類があり、値段もピンからきりまで。パーティや結婚式用の豪奢なサリーは、ぎっしりと石やビーズが埋め込まれていて、驚くほどの重量感ときらびやかさ。着こなすのは体力勝負だ。

    わたしは2001年7月、デリーでの結婚式で、生まれて初めてサリーを着用したときから、サリー世界の虜となった。以降、サリー専門店はもちろんのこと、工芸品のバザールやシルクマークの展示会などを訪れ、これまで無数のサリーを目にし、触れ合ってきた。

    中でも、わたしが最も好きなのは、パールシー刺繍が施されたサリー。

    パールシーとはゾロアスター教徒のこと。歴史的背景を記すと長くなるので、ここでは割愛。関心のある方にはぜひ、下記のリンクをご覧いただきたい。わたしは10年以上前のムンバイ在住時に数枚のパールシー刺繍のサリーを購入した。お気に入りのそれらは、以来、幾度も繰り返し着用している。

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    🥻さて、2012年、パールシーの出自であるAshdeenによって誕生したパールシー刺繍のファッション専門店『Ashdeen』。実は、半年前にデリーに訪れた際、ご縁あって、デリーの店舗で彼と初めてお会いした。更には、今年の1月にデリーで開催した京友禅サリーの展示会に、彼は訪れてくれたのだった。

    Ashdeenから、ムンバイのコラバに新店舗を開店したことは、そのときに聞いていたので、次回のムンバイ来訪時には立ち寄るつもりでいた。

    LOVEBIRDSで買い物をすませたあと、照りつける日差しのもと、徒歩数分の場所にあるAshdeenを目指す。彼は普段、デリー在住だし、ここにはいないよな〜。でも、彼にお願いしたいこともあるし、直接伝えたいな〜。などと思いながら、ブティックへ向かう階段をあがる。

    ここはかつて、別のブティックが入っていた。馴染みの古いビルディングだ。重いドアを開くと、流れ出す涼しい空気、目の前に広がる色とりどりの世界! 一瞬にして、心身が覚醒する。

    店内の一隅に視線を移すと……そこにはAshdeen! 偶然にもこの日、デリーからムンバイに訪れ、店に出ていたらしい。なんという偶然だろう。彼はわたしが持っているショッピングバッグの文字を見て、そしてわたしは、彼のシャツを見て、お互いに「LOVEBIRDS?」と口にする。

    彼が着ているシャツが、わたしが数分前にLOVEBIRDSで購入したジャンプスーツの色柄に酷似しているのだ。

    LOVEBIRDSは、レディスしかなかったはずだが……と思うが早いか、彼は、

    「僕もLOVEBIRDS好きで、だけど男性用がないから、これは敢えて作ってもらったんだ」とのことである。かなりの高確率で、好みが一致している模様。二人で撮影した写真を見て、サンダルのデザインもなんだか似ていて、笑える。

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    🥻デリー店の倍近い広々とした店内。サリーだけでなく、レンガ・チョーリーと呼ばれるブラウスとロング丈のスカート、デュパタ(大判のストール)のセットや、バッグ類などもある。

    店内を案内してもらいつつ、半年前にデリー店を訪れたあとに決めたお願いを彼に伝える。還暦の誕生日に、オリジナルの赤いサリー、もしくはレンガ・チョーリーを、作ってもらいたいのだということ。

    あと2年あるけれど、あっという間に歳月は流れる。早めに意向を伝えておいて、次回はモチーフなどのデザイン案を彼に伝えられればと思う。一隅のクッションを眺めつつ、やっぱりツルは外せないな……と思いつつ、2年後の8月に思いを馳せる。それまでに、もう少し身体を絞り鍛えたい。

    この日は、パーティー用の小さな巾着袋を購入した。サリーにもドレスにも合うかわいらしいデザイン。着物にも合いそうだ。軽いし嵩張らないから、旅行などにも便利。オリエンタルの意匠が本当にすてきな作品(商品)がたくさんで、目の保養にもなる。

    デリー店は、GK-1のNブロック、Anokhiの上階にある。ムンバイ店はタージマハル・パレス・ホテルのすぐ近く。バッグ類などは、精緻な手刺繍ながらも、お手頃なお値段。関心のある方は、ぜひ立ち寄られることをお勧めする。

    ASHDEEN
    https://ashdeen.com/

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    ★ヤズダニ・ベーカリーの壁にも貼られていた絵、羽根のある人物の図柄は、ゾロアスター教のシンボルで「ファラヴァハル(Faravaha)」と呼ばれる。古代ペルシャの美術や建築にもよく見られるこのシンボルには、人物、羽根、輪などそれぞれに意味があるという。

    ★日本のマツダ自動車の社名は、創業者である松田重次郎の姓と、叡智・理性・調和の神を意味するゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(Ahura Mazdā)にちなみ、自動車産業の光明となるよう願ってつけられたとされている。

    ⬇︎過去の記録にも、写真をたくさん掲載しています。

    ✏️Ashdeen。夢のように美しい刺繍……! パールシー刺繍専門店へ。(2022/10/30)
    https://museindia.typepad.jp/fashion/2022/10/ad01.html

    ✏️京都とKYOTOが出合う。Ashdeenを訪ね、パールシー刺繍の歴史や、日本とインドの関わりを知る至福のひととき。(2022/11/03)
    https://museindia.typepad.jp/fashion/2022/11/as.html

    ✏️京友禅サリー/デリーでの展示会を終えて。(2023/01/15)
    https://museindia.typepad.jp/fashion/2023/01/kyz03.html

    😁先ほど投稿した後、彼のサンダルをよく見たらGUCCI。わたしのバッグもGUCCI。やはり好みが似ている模様。

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    ヤズダニ・ベーカリーで故人を偲んだ後、いつも通りに、スターバックス・カフェへ。鋭い日差しが照りつける蒸し暑い日、フォート界隈をあるいたあと、ここで涼を取るのが常だった。

    2012年、インド第一号店として開業したこのスターバックス。久しぶりに訪れれば、内装は以前からは一新している。個人的には、昔ながらのインド風情が生かされた雰囲気が好きだが、このポップに明るい感じもまた、悪くない。

    歳月は流れて、情景は変わる。

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    その後、インドのデザイナーズ・ファッションを扱う「ENSEMBLE」へ。1987年、インド初のマルチ・デザイナー・ストア(日本でいうところのセレクト・ショップ)として、ボンベイの歴史を刻む古いビルディングに誕生したこの店。創業以来、インドのトレンドを築くデザイナーたちのファッションを提供している。

    最近のトレンドをチェックした後、コラバへタクシーを走らせる。我々夫婦が2008年から2年間、暮らしていたのは、コラバ地区の南側、カフ・パレードという住宅ビルディングが立ち並ぶエリアだった。

    ワールド・トレードセンターの向かい、タージ・プレジデントホテルに隣接する利便性の高い場所に住んでいたが、夏は蒸し暑く、モンスーンの時期の湿気たるや壮絶で、さらには漁村からの魚臭もパンチが効いており、なかなかにタフな環境でもあった。

    しかしながら、ムンバイの底知れぬ魅力に惹きつけられていたわたしは、暑い最中もしばしば街歩きを楽しんだものである。コラバ界隈は、ゆえに懐かしくもなじみの場所なのだ。

    ところでインドのデザイナーズ・ブランドは、年々、驚くべき速度でその数を増やしている。トレンドを見極めるのも困難な昨今だが、ソーシャルメディアのアルゴリズムのおかげで、自分の好みを反映したブランドの広告が、InstagramやFacebookに飛び出してくれるので、そこからブランドを知ることもできる。

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    この日、コラバで真っ先に向かったのはLOVEBIRDS。昨年、バンガロールのブティック「シナモン」で、ポルカドットのブラウスを見つけて以来、気に入っており、何枚か購入した。個性的なデザインや着心地のよさの背景には、インドの職人らによる丁寧な手作業、良質な綿素材などを用いるなど、エシカルな側面がある。

    ブティックの入り口には、ムンバイを象徴するカラスの姿。店内には猫がまどろみ、なんとも穏やかな空間。気に入ったデザインが複数枚あったが、無駄を出さない目的もあるのだろう、サイズのストックが少ないので、ジャンプスーツを1着のみ、購入。

    ちなみにインドのデザイナーズ・ブランドほか、多くのブランドが、店で顧客を採寸し、それぞれのサイズにあった服を作ってくれる。日数を要するが、自分にぴったりのサイズを作ってもらえるところも、インドのよさだ。

    ……というわけで、久しぶりに「インドはステキなものであふれている」略して「インステ」のご紹介でした。ファッションやコスメティクスなど、紹介したいブランドがあれこれあるのだが、優先順位の下位になりがち。ときには軽やかな話題も織り交ぜていこう。

    ◉LOVEBIRDS
    https://lovebirds-studio.com/

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    南ムンバイ、フォート地区にある「ヤズダニ・ベーカリー」。わたしにとって、この界隈を訪れるのは、日本人墓地に並んで儀式のようなものだ。1953年創業のこの店は、パールシー(ゾロアスター教)のファミリーが経営してきた。

    2004年4月。わたしが初めてムンバイを訪れたときのこと。タージマハル・ホテルにチェックインして翌朝、蒸し暑い街をさまよい歩いているときに、パンが焼けるいい香りに吸い寄せられて、たどりついた。

    看板娘ならぬ「看板老兄弟」。弟と兄が交代で店に立っている。彼らと言葉を交わしたのは数回ずつ。しかし、忘れ難い思い出だ。初めて訪れたときに出会ったのは弟だった。彼から、この古びた三角屋根の建物は、「20世紀初頭、日本の銀行だった」と教えてもらった。壁にかけられているSEIKOSHAの時計は、100年以上、休まずに動き続けているという。
    我が家にもSEIKOSHAの掛け時計がある。移住当初、コマーシャルストリートのアンティークショップで買ったものだ。文字盤が手描きの、素朴な時計。今でも我が家で時間を刻み続けている。

    店を守ってきた兄弟が他界したことは、昨年、2022年9月の来訪時に知っていた。しかし、今回も気になって訪れた。店の一隅に、3人の遺影。3兄弟だったのか! 他界した日付を見て、胸が締め付けられる。

    長男は2021年1月に、三男は3月に、次男は12月に、他界されていた。2021年は、インドにおいてCOVID-19の第2波が猛威を振るった年。三兄弟は、一年のうちに、揃ってこの世を去った。

    店内は、昨年よりも荒廃した雰囲気で、古くからの従業員が、パンを販売するばかり。この店の経営は、どうなっているのだろう。ご家族が、引き継いではいないのだろうか? 

    決して居心地がいいわけではない。冷房もなく、たいていは蒸し暑かった思い出しかないこの古びた店。しかし、暑い中で熱いチャイを飲み、焼き菓子を食べ、店主と言葉を交わし、時間旅行を楽しむのは、得もいわれず、楽しいひとときだった。

    わたしがムンバイに住んでいたならば、再建の手伝いを申し出たいくらいである。今すぐにでも、カフェを開きたい。そう思っている常連客は、きっと少なくないはずだ。しかしながら、この寂れた状況……。ヤズダニ・ベーカリーの行く末が、気になる。

    以下、初めて訪れたとき以来の記録の、一部を抜粋して残す。2004年から19年間。個人的な歴史を刻み込む。

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    🍞ビスケットの匂いと、正四角柱の食パン。(2004/04/17)

    路地裏を歩く。車の往来は少ないものの、しかし人々は多く。バターと小麦粉と砂糖の、甘く柔らかく優しい匂いをたどっていけば、そこには小さなベーカリーが。店頭のショーケースに、恭しく並べられたビスケット。それらをのぞき込んでいると、店の主人らしきおじさんが出てきた。

    「君はどこから来たの?」

    「アメリカのワシントンDC」

    「でも、僕には君が、オリエンタルに見えるが……」

    「わたしは日本人だけど、アメリカに住んでるの。夫はインド人よ」

    「トウキョウから来たの?」

    「東京に、住んでたことはあるけれど、故郷は、日本の南西の方」

    「ナガサキ? ヒロシマ?」

    「長崎の隣の隣の県よ」

    「君の両親は、じゃあ原爆を知っているんだね」

    「……ねえ、あの食パンの写真を撮ってもいい?」

    「いいよ。でもせっかくなら、あっちのドイツスタイルのパンを撮ったらどうだい? あの時計と一緒に。あの時計は、100年間、動き続けてるんだよ。一日たりとも止まることなく」

    数枚の写真を撮らせてもらい、ビスケットを一袋、買った。

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    🍞ムンバイの街を巡る。食べる。飲む。語る。買う。/ムンバイ在住時の記録(2009/01/14) 

    ……夫の弁当のためのサンドイッチ用パン。それから切られていない食パンも買おう。いちごジャムのトースト用に、自分で厚切りにするのもいい。ピタブレッドも買ってみよう。

    マドレーヌのような味わいの小さなスポンジケーキはティータイムに。焼きたてのアップルパイもおいしそう! シナモンの香りがよく、レーズンがたっぷりと入った、素朴な焼き菓子である。食べるときには温めて、ヴァニラ・アイスクリームと一緒に味わうのもよさそうだ。

    店のおじさんは、しばらくわたしと話をしながら、突然、頭を抱え込んだ。

    「ど、どうしたんですか?」

    「さっきから考えているんだが……どうしても、どうしても、わからないんだ。君の国籍が!」

    そんなに、深刻にならなくても……。

    思えば、初めて会った時も、同じようなことを言われた。

    「アメリカ……のどこかに住んでいたんでしょ。でも、アメリカ人では、ないんだな」

    「アメリカには住んでましたが……日本人です」

    「日本人! そうだ。日本人か。いやしかし、日本人というのはたいてい小さいが、君は大きいから、わからなかった!」

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    🍞妻は天災なのである。(2012/5/16)

    ……8年前、初めて訪れたムンバイ。空港からひたすら南下してたどり着いたはコラバ。車を降りれば、目前にインド門。薄汚れた、薄暗い界隈とは裏腹に、圧倒的に、強く優雅な存在感で出迎えてくれたTaj Mahal Palace。翌日、街を歩いて歩いて、いい香りに引き込まれて見つけた、YAZDANI BAKERY。以来、幾度となく訪れた、なじみの店。

    市場を訪ねたあと、甘いチャイを飲みたくて、足を運んだ。アルツハイマーだと思っていた店主のおじさん。よたよたと、わたしのテーブルまでやってきて、ファイルを開いてみせてくれる。実はパーキンソン病だということを、彼が見せてくれた新聞の記事で知った。

    「一緒に写真を撮ろう」と、スタッフに合図。スタッフたちは、そんなオーナーに手を焼きつつ、世話を焼いている。チャイを飲みつつ、通じない会話。

    “人生とは、いかに嵐を切り抜けるか、ではない。雨の中、どうやって踊るか、だ。”

    「これは誰が書いたの?」

    「僕だよ」

    本当に、彼の言葉かどうかは定かではないが、ともあれ。いい言葉だと、ぐっと来ているわたしに、すかさず次のページを見せる。

    「これも、僕が書いたんだ」

    “誰も火山の噴火を教えてくれない。
    誰も津波の襲来を教えてくれない。
    誰も火事の発生を教えてくれない。
    それらは、「妻」のようなもの。
    天災は、ただ、起こるのを待つしかない。”

    大笑いするわたしに、おじさんも、大笑い。よたよたと、何を話しているかもよくわからないのに、このおじさん、お元気だこと。来て、よかった。

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    🍞目まぐるしく変貌する都市へ。2年ぶり2泊3日のムンバイ旅。(2017/12/03)

    ……2年以上ぶりに訪れた今日、上のお兄さんが車いすで出勤中だった。パーキンソン病を患っている彼、最後にお会いした3年前よりもかなり状態が悪く、もう話すことはできない。しかし周りのスタッフの助けを借りて、店番をしている。その様子に、いろいろな意味で、心を打たれる。

    初めて訪れた十数年前と変わらない店内。チャイを飲みながら、しみじみと眺める。思えば視察旅行の際には、何人ものクライアントをお連れしたものだ。SEIKOSHAの掛け時計。コマーシャルストリートのアンティークショップで見つけた我が家のもそうであるが、これもまた、100年以上、時を刻んできた時計だ。新旧混在極まれる街の片隅で、時間旅行をしているかのよう。

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    🍞幸運にも雨は止み。南ムンバイのなじみのエリアを巡る。(2018/07/15)

    ……2004年の写真は次男。iPhoneで過去のブログをたどり、彼に当時の写真を見せたら大感激の様子。写真を眺めながら、わたしの手を握り、自分の心臓に手を当てて、じっと離さない。このあたりの仕草は、長男とそっくり。

    同じ場所で撮影しましょうかと声をかけたら、よたよたと立ち上がり、しかし元気さをアピールしてくれた。

    勧められたアップルパイを食べながら、これから先はもう、安否を確認するために、足を運ぶようなものかもしれない、とも思う。いつまでも、お元気でいてほしい。

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    🍞約100年前は日本の銀行だった。儀礼としてのヤズダニ・ベーカリー訪問(2019/07/09)

    ……わたしが壁にかけられた写真を見ていたら、従業員のひとりが「オーナー兄弟はボクサーだったんですよ」という。まさか! と思ったが、納得した。昨年訪れたとき、弟が店番をしていたのだが、カメラを向けられた彼は、ボクサーの構えをしたのだ! 

    今日、店番をしていたのは、兄の方だった。2年ぶりの再会。2年前は、少し様子が違ってはいたものの、わたしのことを覚えていて、やたらと手を握ってくれたりしたのだが……。昨日はもう、車椅子に座って、身体を硬直させ、視線は中空を泳ぎ、魂は遠くに漂っていた。「ハロー」といいながら、おじいさんの肩に手をかけても、何の反応もない。

    蒸し暑い店内で、時間の渦に吸い込まれるような気持ちで、チャイを飲む。ゾロアスター教のシンボル。ヘリテージサイトに指定された証明。名物アップルパイの看板。古びた食パンスライサー……。初めて訪れた15年前から、なにも変わらない。新しく貼られている「FREE SAUNA & STEAM」の文字に苦笑しつつ……涙が出てくる。

    もうお兄さんとは会えないかもしれない。別れを告げて店を去り、界隈を歩く。

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    昨夜、ムンバイからバンガロールに戻ってきた。4泊5日、ムンバイでの経験。旅の途中に書き留めきれなかったことを、この数日でできるだけ、残そうと思う。思えば日本旅の記録もまだ、少し残っているのだが……。

    4日目は、ほぼ、一人で過ごした。ムンバイはバンガロールに比べると暑い。かなり暑い。それでも、南ムンバイのなじみのエリアは、訪ねておきたい。まずは、世界最大の屋外洗濯場、マハラクシュミ駅の近くにあるドビー・ガートへ。ここを訪れる目的は、洗濯場を見るためだけではない。その向こうに広がる情景の変化が興味深いのだ。

    ここを初めて訪れたのは2005年。最初の写真には写っていない高層ビルディングが、次々に誕生している。この背景には、経済の振興だけでなく、ムンバイの不動産事情や行政の変化があるのだが、詳細を綴っていると尽きないので、とりあえず、写真を。

    昨年あたりから、観光客が眺めやすいようなポイントが整えられていて、「マハラクシュミ・ドビー・ガート 8つの事実」が記されたパネルが施されている。要点がわかりやすいので、その8つの事実にわかりやすく手を加え、日本語にして紹介する。

    【マハラクシュミ・ドビー・ガート 8つの事実】

    1. ドビー・ガートは1890年に作られたムンバイで有名な屋外洗濯場。ドビーと呼ばれる洗濯人たちが、ムンバイのホテルや病院から届く衣類やリネン類を洗濯している(※高級ホテルや大病院などは、独自のランドリーシステムを持っている)。

    2. コンクリート製の野外洗濯場がずらりと並び、それぞれに鞭打ち石が設置されている。ここは世界最大の屋外洗濯場で、観光客に人気の「アトラクション」でもある。

    3. 洗濯業者の代表的な組織であるDhobi Kalyan & Audhyogik Vikas Cooperative Societyによると、マハラクシュミ・ドビー・ガートの年間売上高は、およそ約100億ルピー。

    4. 2011年「1カ所で最も多くの人が手洗いしている」場所として、ギネスブックに登録された。

    5. 毎日18~20時間、7,000人以上の人々が、コンクリートの洗濯板で衣服を打ったり(※洗濯物を石に叩きつける)、こすったり、あるいは漂白する。濯いだ洗濯物をロープに干し、きれいにアイロンをかけ、市内の随所に衣服を届ける。

    6. 毎日10万枚以上の衣類が洗われる。裕福なドービの中には、手洗いの作業に見切りをつけ、大型の洗濯機や乾燥機を導入したところもある。

    7. ドビーは、ムンバイ最南端地区のコラバから、ムンバイ北端のヴィラールまで、至るところから衣類を集めている。彼らの最大の顧客は、近隣の衣料品販売店、結婚式の装飾、ケータリング、中規模のホテルやクラブなどだ。

    8. ドビー・ガートまた、長年にわたってボリウッドのプロデューサーを惹きつけてきた。ドビ・ガートが登場するヒンディー語映画やマラーティー語(ムンバイのあるマハラーシュトラ州の公用語)映画は少なくない。

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    (写真の新聞は、2008年、西日本新聞『激変するインド』に寄稿した記事。わたしは2007年から2012年までの5年間、毎月、西日本新聞にインドをレポートしていた)

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    マキシマム・シティ。ムンバイをして、人々はそう呼ぶ。

    この小さな半島に詰まった、歴史や文化、多様性……。通りすがりの人間が、その絶大なる密度と深度を、受信して理解し、消化するのは不可能だ。計り知れないな。と、来るたびに思う。

    そして、その底なしの存在感に、毎回、新鮮に、惹きつけられる。

    ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を楽しんだあと、同じバンドラ・クルラ・コンプレックス内にあるショッピングモールに立ち寄る。ここは昨年9月にも訪れているので2度目だ。

    日曜の夕暮れ時を、モールで楽しむ人々の姿。圧倒的な活気。

    その後、シーリンクを走り抜け、南ムンバイへ再び。英国統治時代に誕生した会員制クラブ、ウィリンドン・スポーツ・クラブへ。友人夫婦と夕食を楽しんだ。

    わたしたちは、バンガロール・クラブの会員だということもあり、国内外の提携クラブを利用することができる。2008年から2010年にかけて、ムンバイに暮らしていた頃には、ゴルフコースを備えた、このウィリンドン・クラブにもしばしば訪れた。

    もっともわたしたち夫婦はゴルフをやらない。わたしは、外出の途中、このクラブの2階にある冷房の効いたライブラリに立ち寄り、雑誌のページをめくったり、書き物をしたりした。昔ながらの風情が、なんともいえず心を落ち着かせてくれる。

    昔からここには、半野良猫がいて、この日も数匹と出合った。マルハン家にNORA姉さんが来る以前。わたしは猫に関心がなかったので、猫を見ても立ち止まることはなかった。

    しかし、今は猫を見かけるたびにしゃがみ込んで声をかけ、撫でたり写真を撮ったりと、構ってしまう。昔は識別できなかった猫の個性を、察することができるようにもなった。目に映っていても、見えていないことはたくさんある。

    この都市では、この国では、目を閉ざす時間も大切。脳みそがもう、情報を、処理しきれない。

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    ムンバイでブロードウェイのミュージカルを観劇できる日が来るとは……昨日は夫婦共々、感慨に浸った午後だった。

    そう。妻の出張に合わせて、なぜか夫もムンバイに滞在中。彼も別途、仕事の予定をいれているのだが、昨日は日曜だったこともあり、共に行動したのだった。

    ニューヨーク在住時代、わたしはブロードウェイ沿い、セントラル・パーク南端の、コロンバスサークルの近くに住んでいた。

    ミュージカルシアターが立ち並ぶタイムズスクエアへも、バレエやオペラ、クラシックコンサートなどが楽しめる総合芸術施設「リンカーン・センター」へも、そしていくつもの映画館へも徒歩で赴ける、すばらしいロケーションだった。

    夫とは出会った当初から、しばしば映画館や劇場を訪れたものだ。米国を離れてからも、年に一度はニューヨークを訪れ、何かしらのエンターテインメントを楽しんできた。

    しかし、2019年を最後に、まだ一度も米国へ飛んでいない。ゆえに昨日は、4年ぶりに、臨場感あふれるエンターテインメントを楽しんだのだった。

    今年の3月、ムンバイ北部のバンドラ・クルラ・コンプレックス(BKC)というビジネス・エリアにニタ・ムケーシュ・アンバーニ・カルチュラルセンター(Nita Mukesh Ambani Cultural Centre)がオープンした。ニタ・ムケーシュとは、リライアンス・インダストリーズの会長であるムケーシュ・アンバーニの妻だ。

    リライアンス・グループについても書きたいことは募るが、今日のところは軽く触れるにとどめる。ムケーシュ・アンバーニの父親がリライアンス財閥の創始者であるディルバイ・アンバーニで、彼の弟はリライアンス・ADA・グループ会長のアニル・アンバーニだ。遺産配分や財閥の事業の分割などで、昔から兄弟間の争いが絶えず、世間を賑わせてきた。

    世界の長者番付でトップを飾ってきたムケーシュ・アンバーニは、2010年、ムンバイの中心部に、世界最高額といわれる、地上約170mの自宅(アンティリア)を建築したことでも、世間を騒がせた。また、妻のニタの誕生日プレゼントに、エアバス(航空機)を贈るなど、桁外れなお金の使い方が、しばしば話題になる一族でもある。

    ニタ・ムケーシュ・アンバーニの略歴を見るに、リライアンス・ファウンデーションという非営利団体を運営し、フィランソロピストでもあるようで、社会貢献活動もされているのだろう。

    今回、彼女の名を冠したこの文化センターを訪れて、わたしの中では、リライアンス・ジオ・インフォコムが、4Gの無料提供をしたときに次いで、いい印象を抱いた。

    シアターは、想像していた以上に見事な設備だった。本場のブロードウェイのシアターは、昔ながらの雰囲気がよい一方、設備は古く、シートが窮屈なところが多い。しかし、このシアターはシートの座り心地もよく、ホール全体のレイアウトも開放感があって、非常にいい「気」が漂っている。観劇しやすい環境だ。

    うれしくなって、あちこちで写真撮影などしつつ、開場を待つ。

    そしてミュージカルそのものが、本当にすばらしかった! 音響も、舞台美術も、そして何よりも出演者のパフォーマンス!

    子どもにも愛されてきた映画「サウンド・オブ・ミュージック」だけあり、家族連れの観客も多い。途中、周囲の子どもたちが一緒に歌いだすのも、それはそれで楽しいものだった。

    夫は子どもの頃、映画「サウンド・オブ・ミュージック」(1965)を繰り返し観たという。第二次世界大戦のオーストリアを舞台に、ナチス・ドイツの侵攻が背景にある重いテーマでもあるのだが、子どもたちの歌う姿に希望がある。最後には夫婦揃って感泣してしまった。

    「サウンド・オブ・ミュージック」はまた、ミューズ・クリエイションのクワイアでも歌ったし、SAREESで歌うなど、個人的にも思い入れがある。

    ムンバイの変貌ぶりにもまた、感銘を受けつつ、いい午後だった。ちなみにこのミュージカルは6月18日まで上演されている。

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    ◎Nita Mukesh Ambani Cultural Centre
    https://nmacc.com/

    ◎ムケーシュ・アンバーニの人生を描いた映画『Guru』(2007)。主演はアビシェーク・バチャンとアイシュワリヤ・ラーイ。フィクション混じりとはいえ、リアイアンス財閥誕生の経緯やその後の成長を知ることができる映画だ。

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    5月27日の夕暮れどき。講演を終えてホテルに戻り、サリーから部屋着に着替えてコーヒーを飲む。一息つきながら、窓越しに広がる摩天楼を眺める。少し疲れているし、日も傾き始めているが、今日は行きたい場所がある。

    5月27日は、2004年に他界した亡父の命日だった。去年は、福岡のお墓にて、命日のお参りができたが、例年はインド自宅の「八百万の神コーナー」で手を合わせるのが恒例だ。

    今年は、奇しくも命日にムンバイにいるご縁があったので、眼前に見下ろす「日本人墓地」に赴き、手を合わせようと思っていた。ホテルからは、喧騒の街路を通り抜けて10分ほど先にある日本人墓地。

    記録を遡れば、初めて訪れてから、ちょうど10年経っていた。

    この10年間、ムンバイを訪れるたびに、必ず詣でてきた場所。

    ムンバイには、1952年に、ビルラ財閥の慈善活動の一環として建立された「日本山妙法寺」がある。建設の背景には、日蓮宗の藤井日達上人やマハトマ・ガンディーの存在が大きく関わっている。

    また日本山妙法寺から数百メートル離れた場所には、「日本人墓地/供養塔」がある。

    埋葬地自体は、1908年から存在していたが、墓地として整えられたのは、1933年。今から100年以上前、ムンバイには3000人を超える日本人が暮らしていた。

    最初にムンバイを拠点に活動した日本人は「からゆきさん」。

    19世紀後半、熊本や長崎の貧村から、多くの若い女性たちが、東南アジア、南アジア、果てはアフリカへと売られた。「からゆきさん」と呼ばれた彼女たちはまた、このムンバイ(ボンベイ)にもいた。

    この墓地には、からゆきさんをはじめ、当時、綿貿易に携わっていた日本人駐在員や、第二次世界大戦の際、捕虜となってマハラシュトラ州の収容所にて落命した兵士らの英霊がここに眠っている。供養塔の脇には墓碑銘があり、若い日本女性らの名前が並ぶ。

    この墓地は、近くにある日本山妙法寺によって管理されているが、掃除などを任されているのは、敷地内のバラックに暮らす一家だ。初めて訪れた10年前以降、毎回ヤショーダヤというおばあさんが、笑顔で出迎えてくれていた。一緒に掃除をし、蝋燭に火を灯し、わたしが持参する日本の線香を焚き、手を合わせて南無妙法蓮華経を唱える。

    しかし昨年、2022年9月に訪れたとき、ヤショーダヤの姿はなかった。パンデミックの最中、他界されていたのだった。🙏

    今回はヤショーダヤの娘と、二人の孫娘が出迎えてくれた。長女のジャグルティは大学を卒業し、今、国営放送のドゥールダルシャン(Doordarshan/DD)に勤務しているのだという。次女のアイシュワーリアは大学生。今、日本語の勉強を始めているのだという。

    「ここが日本の墓地だから、日本に関心を持ったの?」

    と尋ねたら、

    「ううん、そうじゃないの。日本の漫画が好きなの」

    と、屈託のない笑顔。素直でかわいい。

    理由がなんであれ、日本に関心を持ってもらうのはうれしい。次回の訪問時には、日本にゆかりのあるものを、お土産に持ってこようと思う。

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    なお、日本山妙法寺や日本人墓地、からゆきさんを巡る物語や撮影してきた写真もまた、尽きない。これまで多くの記録を残してきたが、そのなかのいくつかを、『深海ライブラリ』ブログにまとめた。ムンバイやインドに関わる方には、目を通して欲しいと思う。また、毎度おなじみのライフスタイルセミナー動画のリンクも貼っておく。

    さらには、一時期、インド系Youtuberの眞代さんとコラボレーション動画を作っていた時、「からゆきさん」をテーマに取り上げた。この動画は極めて見応えがある。どうぞご覧ください。

    🙏ムンバイの日本山妙法寺と日本人墓地を巡る個人的な記録のまとめ(2011年〜)
    https://museindia.typepad.jp/library/2013/05/bb.html

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    【インド・ライフスタイルセミナー動画】

    以下の動画は、日本とインドの交流史にも言及しています。インドに関わる方におかれましては、どうぞお役立てください。
    🇮🇳パラレルワールドが共在するインドを紐解く③明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈前編〉人物から辿る日印航路と綿貿易/からゆきさん/ムンバイ日本人墓地/日本山妙法寺

    🇮🇳パラレルワールドが共在するインドを紐解く④明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈後編〉第二次世界大戦での日印協調/東京裁判とパール判事/インドから贈られた象/夏目漱石

    🇮🇳パラレルワールドが共在するインドを紐解く⑤ インド国憲法の草案者、アンベードカルとインド仏教、そして日本人僧侶、佐々井秀嶺上人

    🇯🇵「からゆきさん」を探る〈前編〉貧しい時代の日本。身を挺して海外で働いた女性たちの歴史を紐解く

    🇯🇵「からゆきさん」を探る〈後編〉「からゆきさん」を経てボンベイでマッサージ店を起業。タフな女性の生き様に見る民間外交。誇り高き信念。

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    常々、記していることだが、インドには、日本を好意的に見てくれる人がとても多い。インドが一つの国として独立した際、日本とインドが連携したという歴史的な経緯によって育まれた感情。あるいは、同じアジアの一国としての親近感。その一方で、多様性のインドとは対極にある極東の島国の特異性に対する好奇心。隔離された世界で育まれてきた独特の日本文化に対する敬意など。昨今では、日本のアニメーションが、子ども、若者らの関心を引き続けている。

    このところ、インドのアカデミック層、あるいは、知的富裕層を対象とした「日本、もしくは日本とインドの関わり」について語る機会が増えている。それに伴い、我が特製の、英語のプレゼンテーション資料も、その種類と厚みを増やしている。

    今回は、ムンバイで現在、建築中(一部完成)のラグジュアリーな高層アパートメントビルディング「25 SOUTH」で開催された、居住者や顧客向けの催し “JAPANESE CULTURE SALON” にスピーカーとして招かれた。世界的に有名な日本の陶磁器ブランド「ノリタケ」との合同イヴェントだ。会場には主賓として、在ムンバイ日本国総領事館の総領事、深堀氏も紋付羽織袴姿でお見えになった。場の雰囲気が「日本!」になり、とてもすてきだ。わたしは、毎度おなじみ、京友禅サリーを着用して参上だ。

    1904年、愛知県に誕生したノリタケ。インドの隣国スリランカにも工場を持っているという背景もあってか、インドにおける認知度も高い。わたしの友人宅でも、ノリタケのティーセットを見かけることは少なくない。京友禅サリーの展示会に来てくれた親日派の友人母も、ご自身の最も大切な食器コレクションは、オールド・ノリタケのティーセットだと話していた。

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    さて、日本とインドの関係史については、軽く3、4時間語り続けられる厚みのある資料がある。その一部を抜粋することも可能だったが、休日の午後の、のんびりとした空気の中でのトークにつき、内容は柔らかめがいいだろうと、与えられた時間に合わせ、45分ヴァージョンの新たな資料を作った。

    先月の一時帰国時に撮影した京都の情景や、伝統工芸品の写真を多用しつつ、日本の「匠の技」のすばらしさを伝え、同時に日本や中国、欧州の陶磁器の歴史的背景を語る。

    磁器を生んだのは中国。そして朝鮮半島、日本へともたらされた。マルコ・ポーロによって中国の磁器がはじめて欧州に持ち込まれて以来、東インド会社によって欧州にもたらされた磁器は、たちまち欧州王侯貴族の関心を集める。しかし、その製法を模倣するのは困難で、各地で試行錯誤が続いた。

    結果、ドレスデン近郊のマイセンで欧州最初の磁器が誕生する。わたしは、1991年、ベルリンの壁が崩壊した直後に東西統合直後の「大ドイツ」をドライヴ取材した。フランクフルトからベルリンに至る途中、マイセンやドレスデンにも立ち寄った。1994年の欧州3カ月鉄道放浪旅の際にも再訪。

    さらには、2018年、大いなる理由があって(話すと長くなる)ドレスデンを訪れている。同地のツィンガー宮殿にはポーセリン(磁器)ミュージアムがあり、それはもうすばらしい所蔵品の数々で……と、語れば尽きぬ。

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    かくなる次第で、このテーマに関してもネタが多く、素材には困らない。とはいえ、わたしが盛り上がったところで、聴衆の関心が薄いと意味がないので、控えめにを心がけねばならない。資料を作るのは、たいへんだが楽しい。

    それはそうと、英語のプレゼンをするようになって、自分の英語力の不足を痛感する。資料作りの際は翻訳ソフトの力を借りることができるが、語りはそうはいかない。しっかり勉強しなおすべきだと、今回、改めて痛感した。

    そういえば、パンデミック時に、こんな動画も作っていた! SAREESの演奏を聴きつつ、「ドレスデンの奇跡」を知ることができます!

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    💝シューベルトのアヴェ・マリア。ドレスデンにある奇跡の聖母教会(フラウエン教会)の物語と共に。

    🇩🇪27年越しの念願。遂には、奇跡の光景をこの目で。
    https://museindia.typepad.jp/2018/%E6%97%85%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84/

    🇯🇵NORITAKE
    https://www.noritake.in/

    🇮🇳25 SOUTH
    https://25south.in/

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