インド百景 2021-2025

天竺の、風に吹かれて幾星霜。ライター坂田マルハン美穂が、南インドのバンガロール(ベンガルール)から発信

MUSE INDIA / HOMEPAGE

✈︎ 過去ブログ/2005〜2025

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    🙏闘病の末、38歳でこの世を去った、我が友人の小畑澄子さん。アントニオ猪木氏の訃報を目にして、瞬時に彼女のことを思い出した。

    魂が自由に行き交っているであろう、黄泉の国。光に満ちた世界で、アントニオ猪木氏は、大勢のファンに囲まれていることだろう。その中には、きっと澄子さんの姿もあるに違いない。

    以下の記録は、2001年12月15日に記したもの。ソーシャルメディアもブログもない時代、「メールマガジン」というものを発行していた。その記事を、米国時代のホームページに載せていたので転載する。

    【坂田マルハン美穂のNY&DCライフ・エッセイ(Vol. 62) 12/15/2001】

    ●アントニオ猪木さん、ありがとう! 私も「闘魂」を心に刻み込みました

    火曜日、ロサンゼルスに住む友人のRさんからパッケージが届いた。ワクワクしながら封を開けると、力強い筆致で「闘魂 アントニオ猪木」と書かれた色紙が入っていた。その両脇には、前回紹介した小畑さんの名前と彼女へのメッセージも記されている。

    Rさんと小畑さん、私は共通の友人。Rさんが猪木さんと面識があることを私たちは知っていたが、それ以上の詳しいことは知らなかった。ところが、ちょうど小畑さんの家に行った日、帰宅してメールをチェックしたらRさんからメッセージが届いており、最近、仕事で猪木さんに会う機会が多いとの旨が記されていた。

    Rさんもまた猪木さんの大ファンで、以前から猪木さんをはじめとするプロレスの話はしばしば彼女から聞いていた。以前はフィラデルフィアの公民館(!)へ、小川直也さんの試合にも連れていってもらったこともあった。試合後、公民館の裏で鍛え上げられた身体の小川さん(すごくかっこよかった!)と立ち話をしたことが忘れられない。

    というわけで、猪木さんに迷惑がかからないようであれば、小畑さんへのサインを頼めないものだろうかとメールを送ったところ、Rさんは快諾してくれ、サインだけでなく、「元気ですか~!」に始まる声のメッセージ、トレーニング中の猪木さんの「生写真」も同封して送ってくれたのだ。

    サイン入り色紙をしみじみと眺め、椰子の木の下で長い棒(「闘魂棒」と言うらしい)を持ってトレーニングしている姿に見入り、西海岸の海風の音込みのメッセージを何度も聞いた。ファンじゃない私までもが、エネルギーをもらっている気分になった。

    翌日、近所の額縁屋に色紙を持っていき、ちょうどいいフレームを作ってもらった。家宝になること間違いなしやね。そして木曜日。小畑さんと、もう一人の友人M子を招いての鍋パーティーの日に渡すことにした。

    何でも小畑さんは数日前に風邪気味になり、白血球が下がっていることから数日入院していたらしいのだが、検査の結果、がんの病状自体は好転しているようで、ドクターから「小さくなることはない」と言われていた肝臓部に転移していた大きめのがんが、早くも半分ほどの大きさになっていたという。

    我が家を訪れた彼女は、顔色もよく、元気そう。サーモンやエビを入れた「海鮮鍋」を皆でおいしく食べたあと、いよいよプレゼントの時間。

    猪木さんの声に、サインに、写真に、彼女はもう、大感激。

    「今、がん細胞が一気に消えた気がする!」

    「もう、ものすごーく力が湧いてきた!」

    と、しばらく興奮状態で、私もM子も、とてもうれしい気持ちで彼女を見守った。

    「私はね、小学5年生のときからもう、ずーっと猪木さんのファンなのよ!」

    と、まあ、正直言って、普段であれば周囲がひいてしまいそうな盛り上がりようだったが、状況が状況だけに、「よかったよかった」という気持ちでいっぱいだった。
    アントニオ猪木さんとRさんに、心から感謝する。

    たとえ間接的にでも、こうやって、ものすごいパワーで人を力づけたり励ましたりすることのできる人というのは、本当に偉大だなあと痛感させられた出来事だった。

    ◉生命力/小畑さんがアントニオ猪木に支えられていることを知った日のこと(後半)
    http://www.museny.com/essay%26diary/mag61.htm

    🌸ワシントンD.C.の桜に、亡き友、小畑澄子さんを思う。
    https://museindia.typepad.jp/library/2021/03/sumiko.html

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    タージマハル・パレスホテルの情景に加え、ホテル周辺、コラバ地区の写真も、残しておく。

    南ムンバイにはまた、アールデコ建築も多い。写真の映画館(REGALシアター)もその一つだ。

    テロのときに銃撃を受けた店のひとつ、1871年創業のレオポルド・カフェ(Leopold Cafe)は、弾痕を残しつつも、今も変わらず多くの旅行者で賑わっている。

    初めてこの地を訪れたときから目にしていた、大きな風船売りのおじさんたちも健在だ。

    変わる店。変わらぬ店。

    消える命。生まれる命。

    新旧が混沌と入り混じり、終わることのない時間旅行。

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    2007年から2012年までの5年間、毎月「西日本新聞」に『激変するインド』というコラムを連載していた。当時はバンガロールとムンバイの二都市生活をしていたこともあり、双方の都市におけるライフスタイルなどをレポートしていた。

    今回、コラバ地区を歩きながら、「残る弾痕 臆せず営みを」というタイトルを思い出した。記事はもちろん、わたしが書くのだが、タイトルは編集部が決める。何十もの記事を書いたが、このタイトルは、深く心に刻まれている。

    当時の状況が伝わる記事。関心のある方は、ぜひご一読を。

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    「インドの産業の父」と呼ばれるタタ・グループの創始者、ジャムシェトジー・タタ。グジャラート州で、パールシー(ゾロアスター教徒)一族の元に生まれた彼は、1868年、29歳のとき、タタ・グループの前身である綿貿易会社を創業。その後、綿紡績工場を操業し、インド有数の資本家に。以下、日本との関わりも深い同社の歴史について、わたしのセミナーの資料から、一部を抜粋する。

    ○タタは創業当初から、パールシーの宗教観に基づく企業倫理、理念が徹底していた。教育、医療、インフラその他、さまざまな分野における社会貢献事業を続けている。

    ○1893年、ジャムシェトジー・タタは54歳のときに来日。日印間での綿花の直接取引を実現。従来はインドの綿花を英国が買い取り、日本が購入していた。渋沢栄一と深い関わり。英国のP&O汽船に変わって「日本郵船」が綿花を運ぶ。アジア諸国が欧州列強に席巻されていた時代、タタは日本と協調して英国に対抗。

    ○1903年、ムンバイにタージマハル・パレスホテルを設立。彼は大きな製鉄所や世界的な教育機関、ホテル、水力発電所などをインドに建設することを夢見たが、生前に実現したのはこのタージマハル・パレスホテルのみ。彼の構想は、その後、タタ・スチールやインド理科大学院(IIS)、タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレス、タタ・パワーとして結実した。

    ジャムシェトジー・タタが、このタージマハル・パレスホテルを設立した背景には、さまざまな物語がある。

    1896年7月7日、ショーを見るために立ち寄ったボンベイのワトソンホテルで、彼は入場を断られる。「犬とインド人はお断り」のサインに衝撃を受けた彼は、最高のホテルを建立することを決意。インドで初めて、全館電気が使用された超高級ホテルとして1903年に創業。ドイツ製のエレベータ、アメリカ製のファン、トルコバス、英国人執事などを備えた。

    ちなみに、この「1896年7月7日」のちょうど100年後に、わたしは夫とニューヨークで偶然に出会ったので、この日付は決して忘れられないのだ。

    このホテルのことを調べている時、実は設計図とは「反対向きに」建設されてしまったという、いろんな意味で壮絶な逸話も知った。あまりにも衝撃的な歴史の背景を、ぐいぐいと調べたものである。この件についても、確かセミナー動画内で言及しているので、ぜひご覧いただければと思う。

    そして、わたしたちがムンバイに住んでいたとき。2008年11月26日に、ムンバイ同時多発テロが勃発した。我々の生活圏内であるコラバ地区にあるこのホテルやカフェ、当時の夫のオフィスの向かいにあるオベロイ(トライデント)ホテルやユダヤ教会、駅などが標的となり、多くの人々が命を落とした。

    折しも我々夫婦は、京都を旅していた。朝、ホテルのテレビに映った黒煙と炎を上げるタージマハル・パレスホテルの姿に絶句した。

    このときの出来事も、過去の記録に連綿と残している。

    今回のムンバイ旅の終わりに、タージマハル・パレスホテルを訪れ、Sea Loungeで一人、ハイティーを楽しんだ。アラビア海に向かって聳え立つ、インド門を望むSea Lounge。ここは、わたしが2003年の終わりに、初めてムンバイを訪れ、このホテルに滞在した時から、わたしがムンバイで最も好きな場所でもある。
    あれから19年。このホテルも、インドも、ずいぶん変わった。

    わたしも、年を重ねた。

    それでも、この国を、この都市を、もっと知りたいと思う気持ちは、衰えることがない。特にムンバイを訪れて、その思いを新たにした。

    Sea Lounge。いつもならば、窓辺の席に座るのだが、ここ何年かは、かつてと異なり、たいてい込み合っていて、窓際の席が空いていることがない。少し離れたところから、窓の向こうを眺める。

    テロの後、営業を再開するも、ゲストが少なかったころ。ロビーにも、窓辺の一輪挿しにも、「白い花だけ」が飾られ続けている時期があった。そのころは、このラウンジのゲストもまた、わたしだけ……というときもあった。

    かつては、老齢の給仕たちが、丁寧に応対してくれたこのラウンジ。今は彩りに溢れ、人々の語り合う声に満ちている。

    平和であることの、証だ。

    ニューヨークと、ムンバイが、わたしの心に深く刻印された理由の一つは、多分、双方の都市で、身近にテロを経験したこともあるだろうと、今回、切に思った。衝撃、怒り、悲しみ、苦しみ、祈り、願い、再生……。大勢の人々とともに、「強い感情」を共有したことが、自分の記憶や感傷に、影響を与えている。

    もう、誰に向かって紀行を記しているのかよくわからないが、今回もまた、改めて記録を重ねた。このホテルを含め、個人的な体験を通しても数多あるムンバイの物語についても、近々『深海ライブラリ』ブログに、窓口を作ろうと思う。

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    ◉パラレルワールドが共在するインドを紐解く③明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈前編〉
    人物から辿る日印航路と綿貿易/からゆきさん/ムンバイ日本人墓地/日本山妙法寺

     

    ◉ムンバイ、心の拠り処。タージマハル・パレスホテル(2013年の記録/テロの記録のリンクなどもはっている)

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    Chhatrapati Shivaji Maharaj Vastu Sangrahalaya。名前が長すぎるミュージアム。

    1905年、皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ/後の英国王ジョージ5世)のボンベイ来訪を記念して建立が決定されたミュージアム。当時は「プリンス・オブ・ウェールズ西インド博物館」と呼ばれていた。完成は今からちょうど100年前の1922年だ。

    実はインドへ移住する直前、カリフォルニアに住んでいたころ、夫のインド出張に便乗して、ムンバイ、デリー、バンガロールを旅した。そのときに、このミュージアムを訪れたのだった。

    そのときには、同じ9月ながらも初旬だったせいか、極めて蒸し暑く、じっくりと鑑賞できた記憶がなかった。以来、実は一度も訪れていない。今回も、足を運ぶつもりはなかった。しかし前を通りかかったところ、門から見える前庭の、巨大な仏陀の頭に目が釘付けになった。以前はなかったモニュメントだ。

    近くで見たい。更には、裏側がどうなっているのかも気になる。というわけで、入ってみることにした。

    ミュージアム巡りには、エネルギーを要するから、それなりの心構えが必要だ。今回は、軽く巡ろうと入った。17年前よりは館内が整備されていて、展示物の理解もしやすくなっていた。

    全館をくまなく回ったわけではないが、ここはムンバイの一端を知る上で、訪れる価値のある場所だと再認識した。今回、わたしの目に留まった仏像やヒンドゥーの神々、チベットやネパールの展示物などの写真を中心に、2回にわけて、写真を残しておく。

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    https://csmvs.in/

    【2005年9月の記録】
    ◉蒸し暑いミュージアムを、うつろな気分で
    http://www.museny.com/2005/india/09.htm

    ◉麗しき、神々の面差し
    http://www.museny.com/2005/india/10.htm

    ◉値札じゃないんだから。
    http://www.museny.com/2005/india/11.htm

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    フォート地区の南に位置するカラ・ゴーダ (Kala Ghoda)へ足を伸ばせば、それまでのビジネス街の様相に、アートやファッションの香りが加わる。 この界隈には、美術館やアートギャラリー、教育機関などが点在。毎年2月にはカラ・ゴーダ・アート・フェスティバルが開催される。

    わたしもムンバイ在住時、訪れたことがある。アーティストや職人が集い、オープンエアの広場で作品が展示即売されていた。現在の催しはどのようなものかわからないが、かつてよりも賑わっていることだろう。

    路地には、雑多な商店とハイエンドなブランドのブティックが混在していて、事情を知らない人には、なにがなんだかわからない街並みだ。デリーやムンバイベースのデザイナーによる豪奢なファッションがディスプレイされている横に、薄汚れた工具店や金物店、リサイクルショップなどが隣接していたりする。

    1杯10ルピーのチャイを売るチャイワーラーの背後に、1杯200ルピー、300ルピーのチャイやコーヒーを出す店が立つ。無防備に駐車されたメルセデスやBMWのボンネットに、薄汚れた野良猫が微睡む。

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    5泊6日のムンバイ滞在も、今日で終わり。昼過ぎのフライトで、バンガロールに戻る。最後の2日は、誰に会うこともなく、一人で過ごした。若き日々、一人旅を重ねたころを思い出すなど、それはまた、稀有な時間だった。

    どんなに写真を撮影しても、ネット上にアップロードしておかなければ、未来、紐解く機会がほとんどない。だから今回は、将来の自分のためにも、多めに写真を残しておこうと思う。

    今から100年以上前、ムンバイにもまた、からゆきさんたちが暮らしていた。身体を売って生計を立て、母国にお金を送る若き日本女性の娼婦たちだ。ムンバイに来るたびに訪れている日本人墓地には、彼女たちの御霊もまた、祀られている。

    フォートを歩きながら、『からゆきさん 異国に売られた少女たち』(森崎和江著)で描写されていた、熊本県天草出身の島木ヨシさんを思い出す。シンガポールで娼婦として働いていた彼女は、日本へ帰国するも居場所を見つけられず、ボンベイ(ムンバイ)に渡る。そしてこの地で「マッサージ医院」を開業するのだ。性的なビジネスではなく、あくまでもマッサージを提供する場所だったという。

    マハトマ・ガンディはじめ、多くの政財界の人々を顧客に持っていたという彼女の物語は、ブログやセミナー動画で言及してきた。また、眞代さんとの「教えて! みほ先輩!」のYoutube動画でも、詳しく語っている。

    タタ財閥を筆頭に、少数派ながらもインドの経済や文化を牽引するパールシー(ゾロアスター教徒)のコミュニティ。マラバーヒルと呼ばれるエリアには、パールシーの人々が多く暮らし、「沈黙の塔」と呼ばれる葬場もある。

    このフォートにもまた、パールシーの文化を映した建築物が随所に見られ、パールシーの各種ビジネスの拠点ともなっている。

    『からゆきさん 異国に売られた少女たち』の中で、島木ヨシさんは、パールシーの人から、マッサージ医院を開業するための物件を借りたとの旨が記されていた。今から100年以上前、彼女はまた、このあたりに店を持ち、このあたりを往来していただろう。

    古い建物が林立するこの界隈。そのビルディングを見つけ出すことはできないものだろうか。

    ともあれ、この界隈では、書店、図書館、露店……と、今なお「本」が多く見られたのが、とてもうれしかった。

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    帽子を脱いで髪を整え、額に浮かんだ汗を拭き取り、「きれいな場所」へと足を踏み入れる。

    煙突そびえる工場跡地。そこに建てられたモールやブティックなど。過去20年足らずの間にも、店舗の構成は栄枯盛衰著しく。常に、なにかが消えていて、常になにかが生まれている。

    視察旅行の際には、必ずクライアントをお連れしてきた、Raghuvanshi Millsにあるお気に入りのGood Earth。

    好みの木綿のギンガムチェック。そのドレスが7万ルピー、8万ルピー……! 以前から、大きく出ていたブランドだったが、ここまで値上げて、ビジネスが続いていることに、驚きを禁じ得ない。

    The Tasting Roomのすてきな風情は、インテリアが変れども、変わらずに魅力的。

    隣接するPhoenix Mall。高級ブランドなども入ったPalladiumでは、ロックダウンの間にオンラインで知ったブランドの店舗を、いくつか目にした。若きデザイナーの、すてきなファッションもあり。

    マーケティングも消費のスタイルも、気づけば大いに様変わりしているインド。いずれにしても、こうして変貌する都市の素顔を、直に見て、経験することの重要性を、改めて感じる。五感が、刺激される。

    刺激を受ける分、気づけば結構、疲労している。ムンバイでのこれまでの4泊は、毎日しっかり8時間以上も寝ている。加えてさっきは、朝食後に二度寝して、今、起きた。睡眠、重要。

    昨日の往復4kmの徒歩の旅が、ずいぶん濃かったせいだろう。夕映えのホテルに戻ってきたときには、ほっとしたものだ。

    気ままな一人旅。限られた時間だから出かけたいと思う一方、無理をすることはない。のんびり過ごそうとも思う。

    とはいえ、今日は最終日。これから再び、南ムンバイ南端の、フォートやコラバに出かけよう。

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    英国統治時代、この都市は今よりも遥かに、整然と、美しかった。

    壮麗な建築物、優雅な街並み……当時の記録動画を見ると、欧州の古都のようにさえ、見える。

    1947年8月のある日、インド亜大陸のパンジャブ州とベンガル州は、東西に分断された。そして、東側はヒンドゥー教徒が多数のインドとして、西側はイスラム教徒が多数のパキスタンとして、印パ(インド・パキスタン)分離独立をすることになった。

    このあたりの経緯は、坂田の「インド・ライフスタイルセミナー」のYoutube動画でも詳細を説明しているので、関心のある方にはぜひご覧いただきたい。ムンバイについても、かなり詳しく言及している。

    さて、分離独立の際、西に住むヒンドゥー教徒は東へ、東に住むイスラム教徒は西へと、着の身着のままの移住を余儀なくされた。それは、歴史上、他に例を見ない、短期間での人民大移動だった。その際に展開された暴動、殺戮の歴史もまた凄惨だ。

    パンジャブ州の西から逃げてきた移民たちの一部は、ボンベイ(ムンバイ)を目指し、住み着いた。更には、地方からの出稼ぎ労働者や家族なども、スラムの拡大に拍車をかけた。スラムの定義は広く、家屋の状況も千差万別だが、基本的には、水道や電気、衛生管理などの基本的なインフラストラクチャーが整っていない住宅がスラムとされる。

    そもそも国有地だったところもあるなど、管理者は曖昧。何十年も家賃が変わらず廉価なところもあるがゆえ、誰も引っ越さない。ムンバイのスラム居住者は、ムンバイ人口の約半分を占めるとも言われる。毎年、モンスーンの時期になると、必ず古い建物が倒壊し、死者が出る。

    故に、ムンバイは、超絶に家賃が高い高層ビルディングと、青いビニルシートに覆われたスラム街とが、モザイクのように共在している。

    危険な住宅に暮らす人々に対し、行政が退去を言い渡しても、行く場のない彼らは拒絶する。「自分は、この家とともに死ぬ」と叫び訴える人の記事を、ここに住んでいた銃数年前に、新聞の記事で目にした。なんとも言えぬ気持ちになったものだ。

    近年では、国家スラム開発計画が立ち上げられ、インフラストラクチャーが整え始められていると聞く。実態は、どうなのだろう。調べてみなければ、わからない。

    ただ、わかるのは、混沌のスラムは今も歴然とここに在り、そこを行き交い暮らす人たちは、極めてタフだ、ということだ。

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    ホテルから約2㎞先のショッピングモール。
    かつてなく、好天に恵まれている今回の旅。

    ゆえに、車を使わず、敢えて歩く。

    2㎞程度、大したことないと思われるだろう。

    しかし、ムンバイで歩く2㎞は、かなりの労力を要するのだ。

    ひたすらの、高濃度。

    一瞥の視覚から得られる情報量の多さ。

    世界中、どこを探しても、ムンバイほど「要素」が詰まった土地はないだろう。

    まさに、マキシマム、なのだ。

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    きれいに撮ろうとしているわけではない。
    この都市の、混沌の断片を、捉えたい。

    歩かなければ、目にできない情景。

    生きる人々の息吹。

    しかし、iPhoneの中の画像はみな、静かに整然と、絵画的だ。

    じりじりと、照りつける日差し。

    絶え間なく行き交う人々、喧騒。

    ゴミの悪臭、花の芳香、屋台の香気。

    列車の音。祭りの音。雑踏の音。

    汗をぬぐいながら歩く。

    伝わらず、無念ながらも、残しておく。

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